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 覚束無い指先がてのひらに伝わって、震えているのだと知る。同時にそれが寒さのせいではないことも、縋る何かを欲していたことも正しく理解しながら、その欲求に素直になるにはその矜持故に難しかった。
 山肌を滑り落ちた雪は柔らかく、けれども小さな身体分しかない体重では歩くのに労するほど沈むわけでもない。
 コナンを発見して沸き上がる歓声に哀は一歩だけ踏み出して、止まった。掘り起こされ、抱き上げられたコナンを遠目から伺う。色を失った顔色が、触れなくとも冷たさを伝える。大粒の涙を零しながら力強く抱きしめた蘭に答えるように、唇が微かに動いたのが見て取れた。
 ―――生きて、いる。
 これほど短く感じた15分はきっと他にない。
 指先の震えをてのひらに包み込んで誤魔化して、哀は霞む吐息を視界の端に映しながら、しぶとい人、と呟いた。
 幸いにして外傷もなく、軽い低体温症ではあったけれども、救出から程なくして手当を受けられたこともあり、コナンは夜には食事を取れるほどに回復していた。執拗に心配する蘭に、声色を高くしてこどもを振る舞う姿は、傍目に見ても『いつも通り』であった。身体の丈夫さはこどもの柔軟さ故か、『工藤新一』元来のものかは分からないが、あれだけの目にあっておきながら、大した回復力だと感心する。哀から見ても、大丈夫だと言い張るコナンの主張は嘘ではないと信じられた。
 距離をおいて様子を伺う哀の視線に気づいたコナンが、溜め息をつくような表情をして視線を返す。おそらく、まいったなとでも言いたいのだろう。哀はそう推測して、少し意地悪く笑ってみせた。自業自得よ?音にはならない言葉が、コナンにも伝わるであろうことを確信している。―――こんなやり取りをしているから、折々に歩美には誤解されるのだが。幼いながらも懸命に、(それが恋かは分からないけれど、)コナンを慕う歩美に少しの申し訳なさを抱きながら、同時に"彼女"に対しては全く違う意識を感じる。それは哀にとって決して居心地の良いものではなく、けれどもなかったことには出来ないから、意識の底に沈めるように、あるいはどこかに閉じ込めて蓋をするようにして、哀はいつもそれをやりすごすのだった。
 ほら、と頬についたおかずを蘭に拭われ、照れ臭いのか紅潮した頬が、数時間前のそれとはまるで違う。
 ―――元気になったのなら、それでいい。
 哀は早々に食事を止め、レストランを後にしながら、冷え切った自分の手をさすった。





* * *





 夢見が悪いこと自体は別段珍しいことではない。深層意識がそうさせるのか、あるいは体調が芳しくないときには、不快な気分で目を覚ますことがある。ただ、寝汗をかいて目覚めるほど、ひどく消耗する夢は久しぶりだった。
 夜中に息を呑むようにして夢から現実へ引き戻され、哀は自分の胸元を押さえた。心音が早い。かいた汗があっという間に冷えて体温を奪うので、布団の上に重ねておいたカーディガンを羽織る。空調の効いた館内はそれで十分な暖かさを得られた。
 そのまま再び眠気を待つ気にはなれなくて、気分転換と、抜けた水分を補給するべく寝息が満ちた部屋を静かに抜け出す。みな精神的にも体力的にも疲労しきっていて、目を覚ます様子はなく、哀は安心して部屋を後にした。
 夜も更けたロビーには人気もなく、フロントにも呼び鈴が置いてあるのみで誰も居ない。誰に会うのも億劫だったので、遠慮無くロビーで休むことにした。昼間は歓談に賑わい、今は静まり返ったソファーに身体を沈めて、道すがら買ったお茶のペットボトルを口に含む。喉が潤う感覚に、思っていた以上に渇いていたのだと自覚した。 同時に、先程まで見ていた映像を思い出す。
 真っ白な、夢だった。探しても探しても見つからなくて、諦めろと言わんばかりにあるはずのない鐘の音が15分を告げて、気がつけば周りに居たはずの誰もが消えて。自分の心音しか聞こえない、そんな夢だった。
 我ながらなんて単純なの、と哀は自嘲する。見つかったし、15分には間に合ったし、誰もなくしてはいない。それなのに、どうして。
 ぎゅっと、ペットボトルを握りしめる手に力を込める。
「―――お前って意外と心配性だよな」
 コツン、と壁を叩く音に続いて、そんなセリフが耳に届いた。わざと声色を高くして振る舞うこどもの声、ではない、聞き慣れた声音に哀は落としていた視線を上げる。
 心配性、とは何のことか。それより、寝ていたはずの彼がここにいるということは。
「起こしちゃったのね。静かに出てきたつもりなんだけど」
「…起きたのは出ていく時じゃない」
 そう言いながら、声の主は静かに歩み寄ってソファーに手をかける。 暗がりから近づいてきて、ようやく間接照明がその輪郭を映しだした。
「寝れなかったの?…まぁ夕方までずっと寝ていたんだから―」
「ちげぇよ。ちゃんと寝てた。―――お前がうなされるまではな」
 そう言って、コナンは真っ直ぐに哀を見つめる。夕食時のように、言外に訊いているようだった。どうした?と。
 何と応えるべきか、哀は咄嗟に判断しかねて逡巡した。自分でも分からない感情の不安定さを説明するというのも土台無理な話で、けれどもこの名探偵を誤魔化すのも難しい。曖昧な言い訳しか思い浮かばず、哀はついっと視線を外した。
「…別に、夢見が悪かっただけよ」
「………俺の名前を呼んでたのに?」
「えっ」
 驚いて、思わず口を押さえる。無意識下における言動というのはどうしてそうも無防備なのか。呼ぶことすら少ないのに、どうして寝言なんて。恥ずかしさと戸惑いに慌てて取り繕う言葉を考えていたら、コナンが小さく笑みを作って、今したこの言動にこそ後悔するがもう遅かった。
「………騙したわね」
「じゃなきゃお前は本音を言わないだろ」
 それは推理ではなく、これまでに一緒にいた時間の中で得た経験と実感からの理解故に、否定することはできなかった。諦めて、ため息をつきながら哀は答える。見た夢と、視た現実が、織り交ざって脳裏に浮かぶ。ペットボトルを握る手に力が入らない。
「―――あの状況で、心配しないほうがおかしいじゃない」
「…あぁ」
「わたしだってね、そこまで冷たい人間じゃないのよ」
「知ってる。――むしろ、歩美たちに負けず劣らず仲間想いでお節介だろ、お前は」
 コナンはソファにかけていた体重を離して、改めて哀の隣へ立ち、同じソファーに腰掛ける。思いがけない返答に二の句を告げずにいる哀の代わりに、コナンが続けた。
「それと」
 そう言って、コナンは哀の手を取って両手で包む。左手はてのひらに、右手は甲に乗せて、ポンポンと軽く叩いた。
「心配性で、怖がり、だな」
 ―――体温が、肌越しに生きているのだと、大丈夫だと感覚を伝える。
 暖かいと感じるのは、コナンの体温が高いのではなく哀の手が冷え切っていたからだ。震えていた指先は、決して寒さのせいではなかったからだ。
 例えば自分の涙腺が弱かったなら、今きっと大粒の涙を零していたのかもしれないと、哀は思う。あるいは”彼女”のように、泣きながら彼を強く抱きしめていたのかもしれない。
 けれどそれは自分の役割ではなくて、彼の一等席は彼女のもので、かといって歩美のように無邪気に気持ちをぶつけることも出来ないから、どうすることも出来ない気持ちは宙に浮いたまま行き場を失って。いつのまらそのまま放っておくのに、蓋をしておくのに。そうして色んなことに紛れらせて見失うのをただ待てば良かっただけなのに。―――彼が、拾った。
「………ガキのくせに、生意気ね」
「言ってろ」
 憎たらしい笑顔で、そう軽くあしらって、けれどコナンは手は離さないまま。
 全く普段はあれ程に鈍感なのに、その察しの良さは”彼女”にこそ発揮してあげれば良いのに。 いつもなら言えたそんな皮肉も、今は難しかった。ただ今は、その温かみを享受していたいと、柄にもないと自嘲しながら、哀もまた手を離すことは出来なかった。

 凍えていた指先に体温が戻る。
 生きていてくれて、よかった。







* 沈黙の15分を見てコ哀に滾った結果です。作中でのセリフがおぼろげで違うかもしれません;; とはいえ原作崩すつもりはないのでどうしても片恋なんだけどね哀ちゃん…!(めそり)