ため息

 ――こんな日は、彼に会いたくないと思う。
「どうしたんスか?」
「何が?」
「機嫌、悪いみたいっスけど」


 滅多に表情を崩さないこの上司が一瞬言葉に詰まるのを見止めて、言った本人であるのにハボックは少し驚いた。
 もし今煙草を吸っていなければ、お、とでも呟いただろう。

 リザもそれを察したのか、少々不本意そうな表情で言う。


「私にだって機嫌の悪い時ぐらいあるわ」


 手にした書類を戸棚にしまいつつそう言い訳をするリザは、どこかバツが悪そうにも見えた。
 全く、珍しいことだとハボックは思う。
 いつも冷静で、取り乱すことなどそうそうない。だからこそ、彼女の様子は興味深くはあるが、大方の予想はついている。


「また大佐が何かしたんスか?」
「…何故、そう思うの?」


 分かっていて言っているのか、そうでないのか。
 前者であるなら軽くタチが悪いし、後者であるなら彼女は余程天然ということだろう。

 ハボックは一つ間をおいた後、ため息混じりに言った。


「貴方はいつも、大佐だから」


 他に何かあるのなら、教えて欲しいものだ。
 それは決して口に出しては言わないが。

 リザはそれまで休むことなく動かしていた手を止め視線を書類から離し、改めてハボックを見る。人好きのする有能な部下は、どうやら人の気持ちを察するのも有能らしい。
 何も無い、と隠すのは簡単だが、信用性など無いだろう。
 だからといって、正直に打ち明けてしまうのも馬鹿らしい。

 なんてことはない。
 ただ、彼の夢で目が覚めた。
 それだけのことだ。

 それだけのことが、ただ少し。ほんの、少し。

 ――胸をざわつかせただけのこと。




「…なんでもないのよ」


 それはまるで全てを否定するように。リザは静かに強く、言った。

 機嫌が悪いのは夢のせいではない。その胸のざわめきはただの気のせいで、夢を見たことすらも、無かったことにして。
 そう思うことで、リザは冷静な自分を取り戻そうとする。

 だってそれ以外に、方法なんて知らない。

 そしてそれは同時に、これ以上は踏み込まぬよう、境界線をリアルに引いた。何でもないのだから、気にしないで、と。柔らかく、しかししっかりと。
 言わずとも分かる。問わなくても感じる。
 ハボックは一つ、上司に分かるようあからさまにため息をついた。

 余計なお世話だと分かっていても。
 この有能で不器用な上司に、誰が言わずにいれようか。


「偶には、甘えるのも良いと思いますよ」


 誰に、とは言わない。
 言ってしまうのは悔しいし、言わなくても彼女にとっての主語はおそらく一つだけ。
 ならば野暮ってもんだろう?

 面を食らったようなリザに、ハボックは煙草を銜えたまま器用にニカっと笑う。そうしてその笑みにつられるように、リザも笑った。


「貴方には敵わないわね」
「そりゃ、光栄です」


 それでざわめきが消えたわけではない。
 だけど何かが軽くなった。そんな感覚を、リザは覚えた。


 本当は、きっと、何でもないことなのかもしれない。
 リザはもう一度、小さく自分にため息をついた。


 ――それでもやっぱり、彼の夢はごめんだけどね。