7センチの距離
パシャ
どうしてだろう、周りはこれでもかというくらいに賑やかなのに。シャッターを切る、渇いたような音がやけに耳に響いた。
私は理科室を窓の外から眺めて、小さく嘆息をつく。
――――楽しかった、な。
ヒカルが囲碁をはじめて、そうして自分も教えてもらって。囲碁部に入って、何も知らなかった自分が、大会で副将までつとめた。
いつか大人になって、中学生だった頃の事を思い出すなら、きっと私は囲碁部に入ってからの事を、入ってあった色々な事を、思い出すだろう。それくらい、楽しかった。
いつまでも理科室の前から動こうとしない私に、友人の久美子が不思議そうに問う。
「あかりー?」
「ごめん、先帰ってて?」
そう答えるなり、私は一緒に居た囲碁部の仲間に手を振り、昇降口へと向かう。名残を惜しんいるのか、あちこちで談笑している卒業生達で賑わう校庭を足早に通りすぎていく。
昇降口へ入り、上履きはもう母親が先に持って帰ってしまったので、仕方なく裸足で歩く。廊下の冷たさが、靴下越しだけど伝わってきて少し気持ちイイ。
――もう、この廊下を歩くのも最後かな。
そんな事を思いながら、先ほど外から眺めていた理科室へ向かう。無意識に、足早になる。
別に用事があるわけじゃないんだけど。
だけど、もう一度だけ。
ガラっと、ドアを開ける音が誰も居ない廊下に響く。校庭から聞こえる笑い声や雑談が、窓一枚しか隔てていないと言うのに、とても遠くに感じた。
教室に入って、椅子を引いて座る。
机にうつ伏せになって、外を眺める。
鼻孔をくすぐる机の木板の香りが、不思議に懐かしく感じた。
…ここでよく、三谷君や夏目君に教えてもらったっけ。
筒井先輩が卒業しちゃって。
途中から、金子さんや小池君も混じって。
そういえば、金子さんと三谷君はいっつも喧嘩してたなぁ。
小池君も、頑張ってるみたいだし。
そんでもって。
ヒカルは―――
「…もう、離れ離れだね、ヒカル」
思わず口に出た言葉が、コトンと床に落ちた。
あ、ヤバイ。
ずっと我慢してたのに。
ちゃんと我慢できてたのに。
……泣きそう。
自分の中で熱い何かが、こみ上げてくるのを感じる。咽が熱くて痛い。泣いたら、駄目。
正体不明のその何かを、落ち着かせる様に深呼吸をする。体を起こして、胸に手を当てて。
大丈夫。泣かない。
……うん、大丈夫。
分かっていたことだもの。
ヒカルは碁のプロで。
私はただの高校生で。
歩んでいく、未来へのその道が、決して交わることはない。
中学に入ってから幼なじみとは殆ど会わなくなったというクラスメートの話を聞いた。もう、すれ違っても挨拶すら交わさないと。お互いオトシゴロってヤツになって照れくさいから、ってのもあるんだろうけどね。そう、彼女は苦笑していたことを思い出す。
そうなのかな。
そうやって私達も、離れて行くのかな。
否定できるだけの確証なんて無い。
だけどそんなの。
眠る様に目を閉じて、呟く。
「そんなの――淋しいよ…」
「何が?」
受けとめるはずの無い呟きを返されて、一瞬思考が停止する。そうしてゆっくり振り向いたそこに――ヒカルが居た。
「ど…して?」
「あ?」
「…帰ったんじゃなかったの?」
卒業式を終えた後、早く帰りたいと言って、母親達の会話が終わるなりさっさと帰ってしまったはずなのに。今まで物思いにふけっていたせいか、思うように思考が働かずに混乱する。
「あぁ、ちょっと……忘れ物」
「忘れ物?」
そう、と言ってヒカルはスタスタと教室へ入り、目的地へ付くなりその戸棚を開ける。それは、囲碁部の碁石と碁盤、それから、小池君たちの戦績をつけたノートの入っている場所だった。私達のノートは各自で持って帰ってしまっているから、今はもう、無い。
ヒカルは中から碁石の入ったケースを取り出し、机に置く。
「ヒカル?まさか今から打つの?」
「違うよ」
苦笑して、ヒカルはそのケースから白い碁石と黒い碁石を二つずつ、手に取る。そうしてそのうち黒と白のを一つずつ、私に差し出す。
「ホラ」
言われて訳が分からないまま、手を出してその碁石を受け取る。少し、ひんやりしている感触が久し振りで、心地良い。
「一つや二つ、減ってもわかんないだろ」
そう言って碁石のそのケースを元の棚にしまう。そりゃ、数なんて数えてないから気付かないかもしれないけど。そういう問題じゃ無くて。
「でも…」
戸惑っている私に、それでもヒカルは強気に、大丈夫だって、と言いきる。一体どうしてそんなに自身満々で居られるのだろう。それに、どうして私にも?
「お守りだよ」
思っている事が伝わったのか、ヒカルは何処か大人びた様子で笑う。本当に、いつのまにこんなに変わってしまったのだろう。
私は変わらないのに。
ヒカルだけが変わってしまった。
そう思ったら何だか距離がまた、生まれた気がした。
―――自己嫌悪。
また少し、泣きそうになって俯く私の上から、静かに、でもはっきりと呟くヒカルの声が聞こえた。
「ここは―――はじまりの場所だから」
その言葉に視線をあげてヒカルを見る。ヒカルの視線は、この教室にあった。
強い視線。
この教室を通して、もっとずっと遠くを見ているような。
その先に何があるのか、私は知らない。
「っと、いけね。塔矢の試合が終わっちまう。帰ろうぜ」
そう言うなり、さっさと教室を出ようとするヒカル。せっかちなところは変わらない、かな。
だけど出入口まで行って、足を止めて、…振りかえる。
「何してんだよ、あかり?帰ろうぜ?」
「え、あ……うん」
ヒカルの言葉に、私は慌てて後を追う。
今までずっと、そうしていたように。
昇降口を出て、人気の少なくなった校庭を横切る。校門を出て、いつもの帰り道を歩き出す。途中、昼食の準備をしているのだろうか、美味しそうなにおいした。お昼の番組から流れる談笑が耳に届く。
日はまだ高い。短くて薄いヒカルの影を踏みながら、私はただ黙々とヒカルの後ろを歩いた。
こうして一緒に歩くのも、今日が最後かもね。
そう思ってしまった事を後悔した。
手を伸ばせばそこにヒカルが居るのに。
すぐそこに。
届くところにいるのに。
どうして自分はこんなに臆病なんだろう。
30センチの距離が、縮まらない。
――ねぇ、ヒカル。
縮まらなくてもいいから。
それでも構わないから。
これ以上は、離れないでいて。
祈りにも似た思いを込めて、ヒカルの背中を見つめる。
だけどそれはすぐ中断されてしまった。
ヒカルが急に振り向いて――――
「…え?」
「たまには、な」
私の手を握って、自分の方に引き寄せた。7センチの距離で、肩を並べて再び歩き出す。
ど、どうしよう。
ってどうするもこうするもないんだけどでも!
以前なら、中学生にもなって女と手なんか繋げるかよっって酷く拒否していたのに。
どういう風の吹きまわし?
困惑したまま、だけど握られた手をしっかりと握り返し、また黙々と歩いていく。
話したい事はたくさんあるのに言葉が出てこない。
だけど今は、それでも良いかな。
握られた手から確かに伝わるぬくもりがあるから。
組むように繋がれた手。
この指先から、この思いも伝わればイイのに。
―――自惚れても、いいのかな?
少なくとも今この瞬間、私は誰よりもヒカルの側に居る。
そうして、ヒカルが他に好きな子が居てこんな事をするような人じゃないと、私はきっと誰より知ってるから。
7センチの距離。
いつか0センチになれるのかも、しれない。
どうしてだろう、周りはこれでもかというくらいに賑やかなのに。シャッターを切る、渇いたような音がやけに耳に響いた。
私は理科室を窓の外から眺めて、小さく嘆息をつく。
――――楽しかった、な。
ヒカルが囲碁をはじめて、そうして自分も教えてもらって。囲碁部に入って、何も知らなかった自分が、大会で副将までつとめた。
いつか大人になって、中学生だった頃の事を思い出すなら、きっと私は囲碁部に入ってからの事を、入ってあった色々な事を、思い出すだろう。それくらい、楽しかった。
いつまでも理科室の前から動こうとしない私に、友人の久美子が不思議そうに問う。
「あかりー?」
「ごめん、先帰ってて?」
そう答えるなり、私は一緒に居た囲碁部の仲間に手を振り、昇降口へと向かう。名残を惜しんいるのか、あちこちで談笑している卒業生達で賑わう校庭を足早に通りすぎていく。
昇降口へ入り、上履きはもう母親が先に持って帰ってしまったので、仕方なく裸足で歩く。廊下の冷たさが、靴下越しだけど伝わってきて少し気持ちイイ。
――もう、この廊下を歩くのも最後かな。
そんな事を思いながら、先ほど外から眺めていた理科室へ向かう。無意識に、足早になる。
別に用事があるわけじゃないんだけど。
だけど、もう一度だけ。
ガラっと、ドアを開ける音が誰も居ない廊下に響く。校庭から聞こえる笑い声や雑談が、窓一枚しか隔てていないと言うのに、とても遠くに感じた。
教室に入って、椅子を引いて座る。
机にうつ伏せになって、外を眺める。
鼻孔をくすぐる机の木板の香りが、不思議に懐かしく感じた。
…ここでよく、三谷君や夏目君に教えてもらったっけ。
筒井先輩が卒業しちゃって。
途中から、金子さんや小池君も混じって。
そういえば、金子さんと三谷君はいっつも喧嘩してたなぁ。
小池君も、頑張ってるみたいだし。
そんでもって。
ヒカルは―――
「…もう、離れ離れだね、ヒカル」
思わず口に出た言葉が、コトンと床に落ちた。
あ、ヤバイ。
ずっと我慢してたのに。
ちゃんと我慢できてたのに。
……泣きそう。
自分の中で熱い何かが、こみ上げてくるのを感じる。咽が熱くて痛い。泣いたら、駄目。
正体不明のその何かを、落ち着かせる様に深呼吸をする。体を起こして、胸に手を当てて。
大丈夫。泣かない。
……うん、大丈夫。
分かっていたことだもの。
ヒカルは碁のプロで。
私はただの高校生で。
歩んでいく、未来へのその道が、決して交わることはない。
中学に入ってから幼なじみとは殆ど会わなくなったというクラスメートの話を聞いた。もう、すれ違っても挨拶すら交わさないと。お互いオトシゴロってヤツになって照れくさいから、ってのもあるんだろうけどね。そう、彼女は苦笑していたことを思い出す。
そうなのかな。
そうやって私達も、離れて行くのかな。
否定できるだけの確証なんて無い。
だけどそんなの。
眠る様に目を閉じて、呟く。
「そんなの――淋しいよ…」
「何が?」
受けとめるはずの無い呟きを返されて、一瞬思考が停止する。そうしてゆっくり振り向いたそこに――ヒカルが居た。
「ど…して?」
「あ?」
「…帰ったんじゃなかったの?」
卒業式を終えた後、早く帰りたいと言って、母親達の会話が終わるなりさっさと帰ってしまったはずなのに。今まで物思いにふけっていたせいか、思うように思考が働かずに混乱する。
「あぁ、ちょっと……忘れ物」
「忘れ物?」
そう、と言ってヒカルはスタスタと教室へ入り、目的地へ付くなりその戸棚を開ける。それは、囲碁部の碁石と碁盤、それから、小池君たちの戦績をつけたノートの入っている場所だった。私達のノートは各自で持って帰ってしまっているから、今はもう、無い。
ヒカルは中から碁石の入ったケースを取り出し、机に置く。
「ヒカル?まさか今から打つの?」
「違うよ」
苦笑して、ヒカルはそのケースから白い碁石と黒い碁石を二つずつ、手に取る。そうしてそのうち黒と白のを一つずつ、私に差し出す。
「ホラ」
言われて訳が分からないまま、手を出してその碁石を受け取る。少し、ひんやりしている感触が久し振りで、心地良い。
「一つや二つ、減ってもわかんないだろ」
そう言って碁石のそのケースを元の棚にしまう。そりゃ、数なんて数えてないから気付かないかもしれないけど。そういう問題じゃ無くて。
「でも…」
戸惑っている私に、それでもヒカルは強気に、大丈夫だって、と言いきる。一体どうしてそんなに自身満々で居られるのだろう。それに、どうして私にも?
「お守りだよ」
思っている事が伝わったのか、ヒカルは何処か大人びた様子で笑う。本当に、いつのまにこんなに変わってしまったのだろう。
私は変わらないのに。
ヒカルだけが変わってしまった。
そう思ったら何だか距離がまた、生まれた気がした。
―――自己嫌悪。
また少し、泣きそうになって俯く私の上から、静かに、でもはっきりと呟くヒカルの声が聞こえた。
「ここは―――はじまりの場所だから」
その言葉に視線をあげてヒカルを見る。ヒカルの視線は、この教室にあった。
強い視線。
この教室を通して、もっとずっと遠くを見ているような。
その先に何があるのか、私は知らない。
「っと、いけね。塔矢の試合が終わっちまう。帰ろうぜ」
そう言うなり、さっさと教室を出ようとするヒカル。せっかちなところは変わらない、かな。
だけど出入口まで行って、足を止めて、…振りかえる。
「何してんだよ、あかり?帰ろうぜ?」
「え、あ……うん」
ヒカルの言葉に、私は慌てて後を追う。
今までずっと、そうしていたように。
昇降口を出て、人気の少なくなった校庭を横切る。校門を出て、いつもの帰り道を歩き出す。途中、昼食の準備をしているのだろうか、美味しそうなにおいした。お昼の番組から流れる談笑が耳に届く。
日はまだ高い。短くて薄いヒカルの影を踏みながら、私はただ黙々とヒカルの後ろを歩いた。
こうして一緒に歩くのも、今日が最後かもね。
そう思ってしまった事を後悔した。
手を伸ばせばそこにヒカルが居るのに。
すぐそこに。
届くところにいるのに。
どうして自分はこんなに臆病なんだろう。
30センチの距離が、縮まらない。
――ねぇ、ヒカル。
縮まらなくてもいいから。
それでも構わないから。
これ以上は、離れないでいて。
祈りにも似た思いを込めて、ヒカルの背中を見つめる。
だけどそれはすぐ中断されてしまった。
ヒカルが急に振り向いて――――
「…え?」
「たまには、な」
私の手を握って、自分の方に引き寄せた。7センチの距離で、肩を並べて再び歩き出す。
ど、どうしよう。
ってどうするもこうするもないんだけどでも!
以前なら、中学生にもなって女と手なんか繋げるかよっって酷く拒否していたのに。
どういう風の吹きまわし?
困惑したまま、だけど握られた手をしっかりと握り返し、また黙々と歩いていく。
話したい事はたくさんあるのに言葉が出てこない。
だけど今は、それでも良いかな。
握られた手から確かに伝わるぬくもりがあるから。
組むように繋がれた手。
この指先から、この思いも伝わればイイのに。
―――自惚れても、いいのかな?
少なくとも今この瞬間、私は誰よりもヒカルの側に居る。
そうして、ヒカルが他に好きな子が居てこんな事をするような人じゃないと、私はきっと誰より知ってるから。
7センチの距離。
いつか0センチになれるのかも、しれない。