Saturday, May 17

 5月17日、土曜日の午前。
 目的地までの距離は遠くない。遠く無いはずなのにこんなにも遠い気がするのは何故だろう。

 一歩、また一歩。

 躊躇いがちに足を踏み出し少しずつだけど着実に目的地へと近づいて行く。
 5月の、少しずつ強みを増した日差しがカーディガン越しに腕に注がれ暖かい。天気は良好。時折吹く風も柔らかくて、出掛けるには丁度良い。


 ―――これはカケだ。


 だけど勝算なんて全然無い。自信なんて全く無くて。それでも一縷の望みにかけて、ゆっくりと歩を進める自分に苦笑する。
 道の脇、居並ぶ塀の向こう側に植えられた背の低い木の腕が敷地からはみ出して道に影を作っている。木の葉が陽光を受けて青々と煌いて、初夏の季節を実感する。きっともうすぐ蝉が鳴き出す。ジッとして居ても汗ばむ季節。それを考えれば、多少日差しは強いけどずっとずっと過ごしやすい。


 …ヒカル、居るかな。


 居るかもしれない。居ないかもしれない。
 プロ棋士といった特殊な仕事とはいえヒカルは社会人で、今日は土曜日だから私はお休みだけど、お仕事で居ない可能性の方がきっとずっと高い。
 …でも。
 …居るかもしれない。
 小さな、淡い淡い期待を、どうしてもこの胸から離すことが出来なくて。


 一緒に居たい。何もしなくてもいい。顔が見たい。それだけでいいのに。


 そんな望みは自分の我侭である以外何物でもないけれど、それでも、今日だけは。我侭で居させてくださいと願うのは自分勝手な事だろうか。

 だからカケた。
 居なかったら諦めようと。
 だけどもし、ヒカルが居たら。

 一つだけ、叶えて欲しい我侭を言う。

 そう、決めた。

 曲がり角に差し掛かって、見慣れた風景にもうヒカルの家が間近だと知る。緊張してるのかな、逸る鼓動を抑えられなくて深呼吸を一つして。止まってしまった足をまた躊躇いがちに一歩踏み出す。
 通りすぎる家から聞こえるTVの音や笑い声とか、すれ違う人や散歩をする犬の鳴き声とか、耳に入る全ての音は雑音でまるでスピーカー越しにでも聴いているよう。


 もしも会えたら、プレゼントをねだるの。
 いつもの調子で、冗談っぽく。
 ヒカル、きっと怪訝な顔をするだろうな。
 仕方ねぇな、って言ってくれるかな。


 角を曲がって、少し遠くに目線を遣った先にヒカルの家が見える。何度も通りかかるたびに見上げたその家。夜遅くまでヒカルの部屋に明りが灯っているのを知っている。


 ね、ヒカル。
 プレゼントなんて本当は何でもいいんだよ。
 例え缶ジュース一本でも。
 コンビニで買ってきたお菓子でも。
 なんでもいい。
 なんでもいいの。


 目標を目の前にして、また足を進める。躊躇うことはもうしない。これはカケだ。自分の誕生日ぐらい我侭で居たい。そう決めたから。
 少しだけ小さく見えたヒカルの家が、一歩近づく度大きく見える。
 今日は居るのかな。…居ないのかな。


 本当に何でも良いんだよ。
 プレゼントをね、くれるだけでいいの。
 だってそうしたら。
 プレゼントの事を考える間は私のこと考えてくれてるって事でしょう?
 せめてその時だけは、
 私の事を思い出して欲しい。

 ――欲しいのは、ヒカルの中の私の時間。


 ヒカルの家の前に立って、門に手をかける。昔は私より大きかったこの門も今じゃ低くて腰の辺りにあって。キィ、と、金具が擦れる細い硬い音がして。門を開ける。一歩踏み出して、段差を越えて。玄関口へ。震えそうになる手を堪えながらインターホンに手を差し出す。
 だけどそのボタンを押すよりも早く。
 思い玄関扉の向こうにバタバタと聞こえて。




















 ガチャ




















 ――――え?




















「よう、あかり」
「ヒ、ヒカル…!なんで?」
「部屋からお前が来るのが見えてさ。ホラ、あがれよ」


 いつもの無邪気ででも少しだけ大人びた笑顔で。ヒカルは重たいドアを片手でドアを押さえながらほら、と私を中へ促す。
 予想外の展開に混乱する頭を必至で整頓しようと思考を巡らせながら促されるまま玄関へ足を踏み入れた途端またヒカルが他意無く笑ってこう言った。



「そういえば、お前今日誕生日だろ。…オメデト」





 ―――カケの勝敗は。

 どうやら私の大勝…の、模様です。