くもりのちはれ

 中学3年生ともなれば例え進学希望でなくても夏の補習は強制参加で、
 既にプロ棋士になったとは言え学業優先の義務教育の身分では仕事の無い日は参加しないわけにもいかず、
 ―――だからって何も。

 …まさかこんな場面に出くわすなんてなぁ…。


 当事者達には聞こえないよう、俺は小さくため息をついた。
「聞きたい事って何?」


 降りようとした階段の一階分下からそんな声が聞こえて思わず俺は足を止めて、手すりの陰から下をううかがった。その踊り場で、あかりは手すりに手をかけ目の前の女に問い掛けるように訊いた。


「どうしたの?」


 再度問いかけるあかりの声が聞こえる。何となく居心地が悪い気がして、そのまま進むわけにも行かず、だけどそのいつもと違う雰囲気が気になって、姿を見られぬよう手すりの影に潜んで二人の会話に耳を傾ける。
 寄りかかった階段の壁は夏だというのに冷たくて心地良い。


「あの、ね」


 躊躇いがちに答える、相手の女子。名前は知らない。でも見かけた事はある気がするから、たぶん同学年だろう。あかりのクラスメイトだろうか。


「…進藤君の事、なんだけど」


 ……
 ……
 ……
 ……俺?


「付き合ってるひととかって、居るのかな?」


 ―――――――はい?

 付き合ってるひと、って……何でそんなこと?
 つーか、なんでそれをコイツがあかりに訊くんだ?

 少しだけ顔を出して覗きこむが、二人の表情は見えない。ただ向かい合う二人の後姿だけが見えた。


「えっと………居ない、と思うけど…」


 ゆっくりと、戸惑いながらあかりが答える。
 だけどその声音からあかりの表情を知る事は出来なくて、見つからないよう慎重に二人の様子を見つめる。


「じゃあ、藤崎さんは?」
「え?」
「藤崎さん、進藤君と付き合ってるんじゃないの?」


 ―――――――はぁ?
 何でそんな話になるんだよ…!

 だけどそこまで言われればいくら俺だって話の意図ぐらい分かる。
 詰まり俺に好きな奴が居るか否か。
 そうゆう事だろう?

 だけど何もあかりに訊くこと無いじゃないか。
 訊きたいなら俺に聞けよあかりは関係無いだろ?

 心の中で毒づき、舌打ちする。


「……そんなんじゃないよ」
「でも」
「私たちただの幼なじみだもん」


 少し間を置いて、でもはっきりとそう言ったあかりの表情は読み取れない。

 そうだよただの幼なじみだ。
 あかりは関係無い。


「関係、無いよ」


 静かに告げられたその言葉。
 関係、無いんだ。

 それは本当のはずなのに何だか無性に、


 ――――気に食わない。


「そっか。ありがとう」


 そう言って相手の女が早足でその場を去っていった。廊下と上履きが擦れ足音が響いて、間も無くその音も遠くなって聞こえなくなった。
 だけどあかりはその場から動かない。

 床に手をついて立ちあがる。
 静かに階段を降りて、あかりが居る踊り場の一つ上の踊り場からあかりを見下ろす。
 表情は見えない。
 だから、呼んだ。


「あかり」
「……ヒカル…!?」


 驚いて、目を見開いて俺を見上げるあかり。
 まぁ、当然だよな。
 噂の当事者が目の前に居るんだから。


「今の…聞いてた?」
「…何の事だよ」


 …なんて、白々しく言ってみる。

 聞いてたよ。
 聞いてたけど。
 聞き耳立ててただなんて、体裁悪くて言えるかよ。

 俺の言葉に、あかりが目に見えてホッとしたのがわかった。

 なんだよ。
 聞かれちゃマズイ事だったのか?
 何が?

 俺と
 お前が
 関係無い―――って事か?

 俺が噂の当事者だからというのは分かってるけど、それでもそう考えたら何か無性に腹立たしくなって。


「そんなトコに突っ立ってると邪魔だろ」


 すれ違い様に、素っ気無く言う。

 苛々する。
 何でだ?
 ――理由は、分からないけど。


「ヒカル、怒ってるの?」
「怒ってねーよ」
「うそ、怒ってる。私何かした?」
「怒ってねーって!」


 そう言って、あかりを背に早足でまた階段を更に下へ降りて行く。
 そんな俺を、いつもの様にあかりは追いかけて来て。

 苛々している筈であかりが俺の後ろをついて来るのはいつもの事で、だけど重なる二つの足音が心地よくて。

 足を止める。
 振り返って、あかりを見たらあかりもピタリと足を止めた。
 少しだけ息を荒くして、戸惑った様子で俺を見るあかり。
 それを確認して、また前を向きポツリと言った。


「関係無い、とか。そんな事言うなよ」
「―――――――うそ、やだ!聞いてたの!?」
「聞こえたんだよ!」


 そうして今度はもっと早足で歩き出す。
 あかりの足じゃ追いつけないのか、駆け足で追いかけてくるのが足音で分かった。


 好きとか嫌いとか。
 付き合ってるとか恋人とか。
 そうゆうのはわかんねーけど、さ。

 関係無くなんてないだろう?

 そう思われるのが、こんなに嫌だなんて思わなかったよ。


「待ってよ、ヒカル!」
「おっせーよ」


 歩調を緩めて振り返って笑ったらあかりもつられるように顔がパァって明るくなって笑うもんだから俺も更につられて可笑しくなる。

 ホント、単純だな。
 ……人の事は、言えねーけどよ。

 関係無くなんかないんだよ。
 俺と、お前の、……関係が。
 他人になんて測られてたまるかよ。


 突然一斉に鳴き出した蝉の声が耳につく。窓の外に視線を遣れば、薄く広がる青に輪郭をハッキリさせた入道雲が広がる。


「あっちーな」
「暑いね」


 夏はまだ、これから。