たまには、ね

 教師の、朗々とした声が午睡を誘う平日の昼下がり。窓際の日当たりの良い席で、ヒカルは片肘をつきながら小さくあくびを零した。
 授業の内容は古典。国語ですらままならないのにどうして古典が理解できようか。既にヒカルは匙を投げ、教師の説明をただ右から左へと聞き流す。
 脳内にあるのは、昨夜佐為と打ちあった棋譜。
 古語を覚えられなくとも、公式を覚えられなくとも、こと碁に関しては、忘れようにも忘れられない。
 手にしたシャープペンで、まだ何も記されていない右側のページに棋譜を書き写す。

(――――ここでこっちにツければ良かったのか?)

 考える。長考する。今手にあるのが碁石でないことが、目の前にあるのが碁盤でないことがひどくもどかしい。

 ―――こんなこと、してる場合じゃないのに。

 そう思ってヒカルは溜息を吐き出す。こうしている間にも塔谷は先に進むのだろう。そう思うと、じれったくて仕方が無い気持ちになる。

 焦る気持ちだけが。
 時間とともに比例して。

 どうしようもない、焦燥感。


 二度目の大きな溜息とともに、ヒカルは手にしていたシャープペンを投げ出す。そうして顔を上げて、だけど黒板を見る気にはならず、窓越しに見えるその景色に視線を泳がす。
 その半分を雲で覆われた空と、見慣れた町並み。煙を吐き出さない煙突や、所々にある高めのマンションが何ともなしに視界に入る。視線を下に下ろして見えるのは、水が張りっぱなしのプールと、校庭。そして体育の授業中の生徒たち。男子はサッカー、女子はバレーのようだった。
 その中で一つ、ヒカルは見知った人物を見つけ出す。


(―――あかりだ)


 久々に見た。懐かしい気分こそしないがそれでも最後に言葉を交わしてからはもう何日か経っている。
 宙を行き交う白いボール。レシーブして、トスして、アタックする。それに合わせて、ヒカルの視線を動かした。だけどなかなかラリーは続かない。

(……下手だなぁ)

 だけど打ち合っている本人たちは楽しそうで。きっと上手い下手など二の次なのだろう。ただ打ち合えることが、単純に楽しいのだと。見ていて良く分かった。
 そうしてヒカルの口の端が、少しだけ緩む。
 と同時に、ボールがその軌道を大きく外して、コートの外へと転がっていった。追いかけたのはあかり。必死に走って、追いついて、だけどうっかりつま先に当たってしまったボールはまた弾かれて勢いよく転がる。
 ヒカルは思わず零しそうになった笑い声を、咄嗟に手を当てて抑えた。


(何、やってんだか)


 そんなヒカルの視線に気付くことも無く、あかりは拾ったボールを手に踵を返しコートへ戻る。その後姿を見送って、ヒカルもまた視線を教室へと戻した。
 口に宛がった手を下ろす。
 そうして先ほど投げ出したシャープペンをもう一度手にして、握り締める。

 たぶん緩んだのはその口の端だけではなく。

 黒板を見つめる。現代語訳を読み上げる教師の声。板書されたその意味は相変わらず分からないけれど、せめてノートぐらいは、とヒカル書き殴った棋譜を消し見慣れない言葉を書き綴る。


 たぶん偶には、こんな日があってもいいのだろう。



 午睡を誘う平日の昼下がり。
 ヒカルはそう静かに思った。