happy?

 通りかかったその教室の前で少しだけ足を止めて、その中をちらっと見る。人もまばらな、放課後の教室。帰ってしまわないうちに、と急いできたから、このクラスも終わったばかりのようで。ひょっとしたら居るかもしれない、と思った一通り見回してみたんだけど。


「………帰ろ」


 一つ大きなため息をついて、人知れずそう呟く。
 何事もなかったように歩き出して、だけどその足が何だか少しだけ、重たい気がした。
 昼休みも居なかったから、今日はお休みなのかもしれない。碁の勉強か、それとも、風邪、か。
 昨日のヒカルの様子を思い出す。
 やっぱり通りすがりでちらっと見ただけだったけど、昨日は普通に元気そうだった。
 ヒカルは滅多に風邪なんて引かないから、たぶん、碁の勉強か何かだと思うんだけど。

(ヒカル、がんばってるんだもんね)

 心の中で呟いたその台詞が、他でもない自分に言い聞かせているものだと自覚してた。
 けれど、なんとなく沈む気持ちをとめることも出来なくて。

 …今は試験期間中で、部活も無い。こんなときこそ、気分転換に打ちたいのに。

 また一つ、大きなため息を零してしまう。
 ため息をつくと幸せが逃げちゃうよ、って、誰かにそう言ったのは私なのに。


 1階へと続く階段を、途中すれ違う先生に会釈をして、静かに下りていく。参考書を片手に歩く生徒たちもちらほらいて、私もやらなきゃ、なんて思う。範囲の整頓も勉強のための支度ももう出来ているから、後は授業中に解いた教科書の問題をもう一度解いて。問題集も間違えたところを確認して。やることはたくさんある。

 私は、私の出来ることをがんばらなくちゃいけない。


(…よし)


 心の中で、手を固く握り締めるように、気持ちを結ぶ。ぎゅっと。
 そうこうしているうちに、昇降口へたどり着く。使い慣れた自分の下駄箱へ向かい、上履きを脱いで靴と取り替えて、テストが終わったらお母さんと靴を買いに行く約束をしたことを思い出す。






 ヒカルの居ない日常は

 それでもただ淡々と過ぎていて

 それはこれからもきっと変わらないんだろう





 そんなことを、ただ漠然と思った。
 さみしいとか、切ないとか、そんな言葉がどれも当てはまらないような感覚がある。





『だって、ヒカルは碁をやめるわけじゃないんだもの』





 あの日の言葉。
 あの日の気持ち。

 ―――忘れてないよ?

 だけどさ、ヒカル。

 ため息も、吐きたくなるじゃない?



 そうしてもう一度、3度目のため息を盛大に吐いた時だった。
 歩く足音に紛れて、バタバタとした騒がしい足音が聞こえて、すぐにその音が近くなった。名前を呼ばれて、それが私を追いかけてきたものだと分かり、持っていた靴を置いてからそちらを見る。


「久美子?」


 どうしたのそんなに急いで、と肩で息をする久美子に訊く。少しだけ息を整えたあと、胸に手をあてて呼吸を抑えながら、よかった、と笑った。


「もう帰っちゃったかと思った」
「なぁに?」
「ちょっと待って」


 そう言って、まだ少し荒い息を抑えながら、久美子は自分の走ってきた方向を見つめる。私の位置からは下駄箱がさえぎって見えないけれど、たぶん、廊下の先を見つめている。


「どうしたの?」
「うん、あのね」
「?」
「先生に呼び出されたんだって。だから、帰っちゃわないようにすぐに出てきて待っててって言おうとしたんだけど、あかりったらもう居ないんだもん」


 なんだか嬉しそうに、そう言われても。
 なんか、意味が、分かんないよ?


「出てきて、って」
「あ、ほら。来た」


 そう言って、久美子が元来た方向へ手を振る。同時に、またバタバタという足音が聞こえてきて。近づいた、と思ったら声が聞こえた。


「さんきゅ、津田」
「どういたしまして。
 じゃあ、あかり、またね」


 いつもの優しい笑顔で今度は私に手を振って、久美子はまた戻っていった。そうして入れ替わりに、文句を言う声が私の耳に届く。
 いつものように、にくまれ口を叩くようなその口調。


「ったく、早ぇよお前」
「ヒカル…」


 衣替えはまだだから、制服は学ランのままで。急いだから少し苦しいのかもしれない。学ランの襟を億劫そうに弛めるヒカルが目に映った。
 急いできたのか、ヒカルの呼吸は少しだけ荒くて。


「……今日は休みじゃなかったの?」
「は? 何言ってんだお前」


 今日は会えない、って思ってたから。
 不意の出来事に、なんだか無性に言葉が詰まって。
 ただヒカルの一挙手一投足をぼーっと見てた。


「なんだよ?」
「…ううん」
「変な奴」


 そう言って笑うヒカルは、昔悪戯っ子だった時の笑顔そのままで。
 少しだけ、泣きそうな気持ちになる。

 ヒカルは襟から手を離し、背中のリュックを背負い直す。そうして改まって私の方をみて、楽しそうに言った。


「お前これから暇か?」
「暇って言うか…テスト勉強しないと。ヒカルは大丈夫なの?」


 テスト、の言葉に反応したのか、ヒカルが、うっ、と少しだけ嫌そうな困ったような顔をした。
 勉強嫌いは相変わらずみたいで、なんとなくホッとする。


「そんなもん、後でいいだろ。それよりさ、これから打たねぇか?相手してやるよ」
「え?」
「うちでいいか?」
「う、うん」


 私の返事に、ヒカルが良し、って笑う。そうしてさっさと自分の下駄箱へ行き、上履きをいつものスニーカーに履き替える。子供のころから何度も見てきた仕草。乱暴に靴を履き、つま先をとんとんと地面に打つ。
 その様子がなんだかおかしくて、今まで考えてたことが全部全部、些細な事に思えた。なんだか無駄に、空回りしてみたいな。そんな気持ちが沸き上がって、しょうがないな、ってため息交じりに息を吐いた。


「あ、」
「え?」
「ため息。幸せが逃げるぞ」


 そう言って、ヒカルは自慢気に笑った。知ってるか?って聞いてるような笑い方。

 ――それ、誰にきいたのよ?

 そう聞こうと思ったけれど、なんとなく、言わない方がいいかなって思って。思わず笑いそうになるのを堪えながら、からかうように、ヒカルに向かって手を差し出す。


「じゃあその分ヒカルがお裾分けしてね」
「やだよ。勿体ねぇ」
「ヒカルのケチ」
「ケチで結構」


 帰るぞ、と、既に先に歩き出したヒカルが振り向きながら言う。その背中に、待ってよ、と声をかえて追いかける。





 ヒカルの居ない日常は、それでも静かに過ぎていくけれど。

 ため息だって、つきたくなるけど。

 それでも、こんな些細なことで、逃げた幸せを全部捕まえられるなら。

 私はまだ、がんばれる。





「手加減してね」
「おお、好きなだけ置き石しろよ」
「じゃあ50子くらい」
「……碁盤が埋まるだろ」



 だからね、ヒカル。

 ため息をついたら、また、打とうね。






『私は……やめない』


『だって』


『ヒカルは碁をやめるわけじゃないんだもの』






 ――また、打ってね?





*Special thanks for you !