22.そばにいて

written by まのあずみ
 五月五日、晴天。
 首都圏の住宅事情から、わずかな空間に泳ぐ鯉のぼり。開け放した窓からカーテンをそよがせる風。
 どこからか、掃除機のモーター音に混じって、子どもの笑い声が響いてくる。犬が短く吠えて、途端に甘えた響きになって。
 そんな音を聞きながら、碁盤に石を並べて、相手の居ないそこに座る。
 ああ今日も、いい天気だ。


「ヒーカールっ」
 こんこん、と軽いノックと一緒に響いた呼びかけに、ぎくりと跳ねかけた心臓のあたりを手でおさえる。
 ノックなんてしないじゃないか、アイツは。いくら今日が、あの日だとしても。
 それでも、家族以外にその呼び名で呼ぶ人は、もう一人しかいなくて。
 その声も、しばらく聞いていなかったから、一瞬混乱しただけだ。それだけだ。
「どーぞー」
 素っ気なく答えて、碁盤の上に視線を戻す。扉が開いて、そして「あ」とうろたえたような声が続いた。
「ごめん、打ってた? 邪魔なら帰るけど」
 遠慮がちな声に、顔を上げる。
 胸に紙袋を抱えて、不安そうに眉を曇らせて。おっきな目が、置いて行かれそうな子犬みたいなことになってる。

 ――置いて、いく?


「――邪魔じゃねぇよ。何?」
 ぱっとあかりの表情が明るくなる。いそいそと胸に抱いていたピンクの紙袋を差し出してくるのに手を伸ばして受け取る。
「あのね、さっきお母さんとケーキ焼いたの。名付けて子どもの日ケーキでね、鯉のぼりの形にしてみたんだよー。食べて?」
 手の中のその紙袋はまだほんのりとあったかくて、まだ少し冷たい窓からの風から守るように両手でくるんだ。
「じゃ、ごめんね? 続けてて。私おばさんにケーキのレシピ――」
「あかり」
 急いで踵を返そうとした幼馴染みを呼び止める。
 思い出の中に置き去りにするのも、されるのも、もうたくさんだ。
 置いていかない。例え歩く場所は違っても、目指す所は違っても、それでも。
 きょとんと体半分だけこちらに向き直らせた、あかりを見上げて口を開く。
「……散歩、いかねぇか? 仕事が仕事だから体なまっちまってさー。クロも一緒に」
「もー、勝手に名前つけないでよ人んちの犬に!」
 そう言いながらもあかりの顔は笑っている。身長差が変わって、生活する場も変わって、会う頻度も変わっても、この笑い顔だけは何も変わらない。
「あ、けどその前に腹ごしらえな。かーさーん、なんか飲むもの頼むー! あかりのも」
 べりべりと容赦なくラッピングを剥がしながら階下に叫ぶ。と、座りかけていたあかりが慌ててもう一度立ち上がった。
「私もらってくるよ! コーヒー?」
「いい」
 遮って、振り向いたあかりを手招く。
「座ってろよ」
「え、でもおばさんに悪いよ」
「いーの。お前は今日ケーキ持ってきたんだから」
 開けた箱の中には、確かに鯉のぼりの形にカットされたケーキが収まっていて、なるほど子どもの日ケーキねと納得する。
 はしっこのあたりをちぎって口に放り込んだ。心配そうに見守ってるあかりに、にっと笑って見せて。
「うまい」
「ほんと? よかったぁ」
 胸をなで下ろしたあかりが、諦めたのかやっとそこに座った。いつでもそばにあったはずの、振り返れば必ずそこにあったはずの、見慣れたご機嫌な笑顔で。
 たとえそれが、ひさしぶりになっていても。
 歩く場所も目指す先も、現実の中で別れていっても。
 今は、そばにいて。