26.あいつはいいの
「――は?」
寝耳に水、とはこのことだろうか。そんな小難しい言葉をうまく使えたことなんて無いが、とにかく言われた言葉の意味が一瞬理解できず、俺はもう一度聞き返すように声を上げる。
このクラスメイトは。
今、なんて?
「だから、藤崎さんって彼氏いるんだね、って」
淡々と答えるそのクラスメイトは、前の席に座り体だけを横にして、びっくりしたよ、と付け加える。
びっくりしてんのは俺の方だ。
付き合ってるのか、と聞かれたことは今までにも何度かあったが。
(――あかりに?)
(――彼氏?)
そんな話は微塵も聞いたことが無い。俺は思考を巡らすがやはり思い当たる節などなく、なんの思い違いかと思う。勘違いじゃねーのか。
だけどそれを言うより早く回りに居た女子がどこからともなく話に乗ってくる。昼休みの教室は井戸端以外のなにものでもないらしく、あっという間に俺たちを囲って女子が2、3人の人だかりが出来る。
「あー、私も見た!駅前のスタバで二人で楽しそうにしてたよ!」
「結構カッコイイ子だったよねー!」
俺が何を考えているのかなんて察するはずも無い周りが、あーだこーだと騒ぎ立てる。どうしてこうも女子はこの手の話が好きなのか、いつもながらにうんざりする。それでも聞き耳は立てたまま、あかりの噂話をしっかりと耳に入れる。
子供の頃とは違う。いつも一緒にいたあの頃とは違うんだから、俺の知らないあかりが、あかりの知らない俺が居るのも当然のこと。
だから別に、自分には関係のないことだ。
それで良いはずなんだ。
――なのにどうして。
「私藤崎さんって進藤と付き合ってるんだと思ってたよ」
「いいのー?進藤ー。彼女取られちゃってさぁ」
誰が誰の彼女だって?
勝手に決めんなっつの。
だけどそう言っても無駄なことも、言えば尚更騒ぎ立てられるということも知っている。俺はこいつらの噂を制止するように席をたち、関係ねぇよ、とだけ呟いて逃げるように教室を出た。
いいもくそも無い。
取られるも何も自分のものになったことなんて無い。
あかりがどこで誰とどうしようと、俺には関係の無いことだ。
『駅前のスタバで二人で楽しそうにしてたよ!』
(―――だから何だってんだよ!)
募った苛々を解消する方法なんて碁以外に知らない。だけどサボってそれをするわけにもいかない。授業に出られる日にはきちんと出ること。それがプロになる時に担任に約束したことだった。
案の定、何も静まらないまま廊下に、校舎中にチャイムが響き渡る。授業開始の、5分前の予鈴。
俺は苛々を胸に残したまま、無残にも鳴るチャイムにきびすを返した。
* * * * *
「くそっ」
声と同時にばさっと音を立てて学ランの上着を椅子に、鞄を机に適当に放り、俺はベッドに仰向けになる。欠席が多いことで担任に呼び出され、結局帰ったのは日が暮れた頃だった。季節は秋で日暮れが早いとはいえ、あまり嬉しいことじゃない。夜道を歩けないなんてそんな女みてーなことは言わないが、それでもただでさえかったるい学校なんだから出来れば日暮れ前に帰りたいものだと思う。
(……疲れた)
ため息をつき、天井を見る。目に映るそれはただ何も無く、ボーっと見るには丁度良かった。が、それも時と場合によるらしい。
昼間の会話が頭の中をよぎってはまた繰り返し、考えたくもないのに思い出してしまう。
(彼氏、ね…)
(ま、アイツ何気にもてるしな)
俺にしてみれば何処がいいのか、疑問以外のなんでもなかった。だけど聞きたくなくても聞こえてくる。藤崎って可愛いよな、とか。あいつ藤崎に気があるみたいだぜ、どうする?とか。幼馴染だからっていちいちそんな話をしなくとも、と思うが言ってくるのだから仕方ない。
そうして、心中で何度目かの同じ言葉を呟く。
俺には関係ないけど、と。
もう一度繰り返したそのとき、下から聞こえる呼び声にヒカルは耳を澄ました。
「ヒカルー!おつかいお願いー!」
要点だけを伝えたその言葉に、俺はふぅ、とため息をついてベッドから立ち上がる。いつもなら忙しい!と断るところだが、なんとなく外に出たい気分だった。おそらくスーパーか何かだろう、それなら部屋着で構わないと、俺はいつものジャージに着替え、部屋を出ながら声の主に応える。
「なに、お母さん」
「これ届けてきてくれない?忙しい?」
そう言ってお母さんは袋一杯に入った梨を差し出す。たぶんどこからか送られて来たんだろう。毎年この季節になると送られてくる。おすそ分けに、と受け取ったそれはやたら入っていて多少重かった。
「いいけど、どこに?」
「あかりちゃんち」
しまった。
と、思ったがそこで断るのも明らかに不審だ。
俺はしぶしぶ、分かったとだけ言い玄関へと向かう。
あいつだって部活とかあるだろう。まだ帰ってないかもしれない。そう思い、あかりが居ませんように、と祈りながら、家を出た。
* * * * *
「あれ、ヒカル珍しいねー?」
玄関を出た早々、迎えたのは他でもないあかり本人で。俺は思わず、ゲ、と漏らす。
「げ?」
「いや、なんでもない。お前部活は?」
本来ならそんな時間か、もしくは終わって帰ってくるような時間だ。あの場所へ…理科室へ、行かなくなって大分経つがが、それぐらいのことは覚えているし知っている。何度も戻りたくて、戻ろうとして。それでも戻れなかったあの場所をずっと遠くから見てたんだから。
だけど帰ってきたのは予想外の答えだった。
「…もう引退したもん」
そう言うあかりは少し寂しそうで、その言葉に咄嗟に返事が思いつかず、そっか、とだけ呟く。だけど考えてもそれ以外の言葉など出なかったかもしれない。
そっか。
秋だしな。
そんな、季節なんだ。
自分が囲碁部に居た頃を思い出す。確かにそう、筒井先輩もそうだった。人の少ない囲碁部を心配して、頻繁に顔を出してはくれたけれどやっぱり秋には引退して。…その後のことは、あの教室から離れてしまったから知らないけど。
あの場所に行けば、みんながいる、なんてことはもう無いんだ。
俺はあかりを見て、小さく呟いた。
「お前も、引退か」
「うん、私も」
そう言ってあかりが静かに笑う。
始まりの場所。思い出の大切な、人と場所。あそこから始まって、背中を押してくれたのもあの場所だった。
俺がそこから抜けて。
そうして今、あかりも。
だけどいつまでもそんなことを思っても仕方ない。
俺は思考を振り切って、手に持った袋をあかりに差し出す。
「あ、これ。お母さんから、おすそ分け」
ガサ、と音がして差し出されたそれを、あかりが受け取る。
中身を確認して、ありがとう、と今度は嬉しそうに笑った。
「全部一人で食うなよ」
「食べないよ!」
両手塞がっていなかったら手が出されてたかもしれない。あかりは言葉だけで対抗して、ヒカルこそ!と付け加える。
だけどやっぱり、俺ですら重たかったのだ、あかりには尚更、重たいだろう。それに気づいて、早々に退散をしようとするが、ふと思い立って引きかけた足を止める。
「ついでだし、これから打たねぇか?」
引退したなら尚更打ってないだろう。他意はなく、それだけのつもりで。
だけど返ってきたのはこの上なく予想外なものだった。
「あ、ごめんね。今日は無理なの」
申し訳無さそうに、もう一度ごめんね、とあかりが言う。梨の袋が重たいんだろう、何度も持ち替えて持ち直してはガサ、と音を立てる。
「また今度打って、ね?」
今日は、無理、って。
「忙しいのか?」
「え、……うん、そりゃあ」
そりゃあ?
あかりは俺の質問に多少不思議そうにしながら、あたりまえのように答える。だけどその答えは、さっきまでの苛々を思い出させるには十分だった。
それはつまり、(カレシがいるから)ってことか?
あかりはあかりで、俺は俺。
何処で誰と何をしようが関係ない。
そんなことは百も承知で、――だというのに。
この、苛々は、なんだ。
途端に不機嫌になった俺の心中などあかりが推し量れるはずも無い。ただ不思議そうに見つめて、それが余計に苛々を募らせる。
――そんなこと。
言うつもりなどなかったんだと後悔するのは、いつも後になってから。
「…そいつはいいのに、俺はダメなんだ?」
「え?」
「デートしてる暇はあるのに俺と打つ暇はないってことだろ?」
一瞬の間。
その言葉に、あかりが怪訝な顔をして。
「…ヒカル?」
気がついたのは、そんなあかりの表情を見たときだった。
(―――――俺! 今、何言った…!?)
「デートって…」
「わり、何でもねぇ!帰る!」
あかりが聞き返すより早く吐き捨てるようにそう言って、俺は慌ててあかりの家を後にする。
(うわぁ…!何言ってんだよ俺…!)
取り消せるなら今すぐにでも取り消したい。あまりの恥ずかしさに、体がカッと熱くなるのを自覚した。
あかりの家から俺の家までは大した距離じゃない。
家に着いて早々、一目散に自分の部屋に戻って。
ドアを閉めたところで、そのドアを背もたれに俺は頭を抱えて座り込む。
「最悪だ…」
大体なんだ、あの言い方。同じ嫉妬ならもっと別の言い方があってもいいだろう。
それなのによりによって。あんな。
(ガキみてぇじゃねぇか…!)
思い返してもありえない。だけど言ってしまったのは事実で、思い出すだけで恥ずかしさでいたたまれなくなる。
あかりはどう思っただろうか。
あんな、子供染みた嫉妬みたいな。いや、子供だってもっとマシなヤキモチやくだろう。
これを嫉妬だと認めるわけじゃないが、それでも思わず出た言葉は明らかにそれだった。そんなつもりなどなかった。だけど意思に反して。それは溢れるように零れた台詞で。
「っあー…」
しまった、というようにそう声が零れた直後。
ポケットに無造作に仕舞いこんだ携帯が振動と共に音を鳴らす。
味も素っ気もない、機会音がくぐもって聞こえたのを確認して、折りたたまれたそれを開いてみればディスプレイには案の定。
(…あかりだ)
(どうしよう…って出ないわけにもいかないか)
ピ、と受信ボタンを押して携帯を耳に当てる。スピーカー越しに聞こえるあかりの声はすこしくぐもっていて、直じゃないことが余計に心臓に悪く思う。顔を合わすことなど出来ないが、声だけじゃ分からないのもまた事実で。ヒカルは全神経をそこに集中させるようにして、あかりの声を聞く。
『もしもし、ヒカル?』
「…何」
『断ったの、怒ったのかなって思って』
「…別に」
怒ったわけじゃない。それは事実だ。むしろそれよりももっと、――たちの悪いもので。
『そう?
ていうかヒカルは大丈夫なの?』
「何が?」
『…ヒカル、忘れてる?』
「だから何が」
『…明日から試験だよ』
携帯越しに呆れるようなため息が聞こえた。
あかりの読み通り、やはり、というかなんというか、…忘れていたわけで。
(明日からだっけ…!?)
「わ、わすれてねーよ!」
『嘘ばっかり』
「ホントだって!」
『はいはい』
懸命に否定するがそれが信じてもらえるはずも無い。分かっていても、悪あがきをせずには居られない俺も相当な負けず嫌いだと思う。俺の声が携帯のマイクに空しく響いた。
じゃあなんだ。
断ったアレってのは。
そりゃあってのは。
――試験勉強だった、ってことか?
あまりにもばかばかしくて、自分で自分を笑いたくなる。あかりが鈍くてよかったと、今ほど思ったことは無い。あんなこと。あんなくだらねぇヤキモチ。知られてたまるかってんだ。
『あとね、デートって何のことかよくわからないんだけど』
だけどあかりは方っておく気は無いらしい。
ごまかすことは難しくないが、むしろ聞きたいのは俺の方で。この際はっきり出来るものならしておきたいと、俺は躊躇いがちに答える。
「…お前が駅前で男とデートしてたって聞いたんだよ」
『駅前?…あぁ、塔矢君?』
「は?塔矢?」
何でそこに塔矢が。
『デートなんかじゃないよ!
この間偶然会ったの。でね、ヒカルの色んな話聞かせてもらっちゃった』
ヒカルいつも塔矢君と喧嘩してるんだって?と聞くあかりは大層楽しそうで、俺の気持ちなんて知る由も無いだろう。挙句に、ダメだよ仲良くしないと、となだめるようにそういって。
俺は盛大なため息をついた。
(ホント、最悪だ…)
勝手な噂に勝手にヤキモチまがいなものを妬いてあかりに八つ当たりして。
どうしようもないのにもほどがある。
悔しかったのか焦っていたのか、そんなことは分からない。
ただ分かっているのはあまりにも自分が子供じみていたってことだけで。
そしてもう一つ。
思い至って、もう一度、今度は軽く、ため息をつく。
『ヒカル?どうしたの?』
「…なんでもねぇよ」
そんな噂一つで、落ち着かなくなってしまうほど。
自分があかりを気にしてるってこと。
(―――勘弁してくれ)
なんとなく、…なんとなくだけど。
たぶんこの先も同じような苦労するんじゃないかって予感がして。
とりあえず、次に塔矢に会ったときには、叩きのめしてやると心に誓った。
寝耳に水、とはこのことだろうか。そんな小難しい言葉をうまく使えたことなんて無いが、とにかく言われた言葉の意味が一瞬理解できず、俺はもう一度聞き返すように声を上げる。
このクラスメイトは。
今、なんて?
「だから、藤崎さんって彼氏いるんだね、って」
淡々と答えるそのクラスメイトは、前の席に座り体だけを横にして、びっくりしたよ、と付け加える。
びっくりしてんのは俺の方だ。
付き合ってるのか、と聞かれたことは今までにも何度かあったが。
(――あかりに?)
(――彼氏?)
そんな話は微塵も聞いたことが無い。俺は思考を巡らすがやはり思い当たる節などなく、なんの思い違いかと思う。勘違いじゃねーのか。
だけどそれを言うより早く回りに居た女子がどこからともなく話に乗ってくる。昼休みの教室は井戸端以外のなにものでもないらしく、あっという間に俺たちを囲って女子が2、3人の人だかりが出来る。
「あー、私も見た!駅前のスタバで二人で楽しそうにしてたよ!」
「結構カッコイイ子だったよねー!」
俺が何を考えているのかなんて察するはずも無い周りが、あーだこーだと騒ぎ立てる。どうしてこうも女子はこの手の話が好きなのか、いつもながらにうんざりする。それでも聞き耳は立てたまま、あかりの噂話をしっかりと耳に入れる。
子供の頃とは違う。いつも一緒にいたあの頃とは違うんだから、俺の知らないあかりが、あかりの知らない俺が居るのも当然のこと。
だから別に、自分には関係のないことだ。
それで良いはずなんだ。
――なのにどうして。
「私藤崎さんって進藤と付き合ってるんだと思ってたよ」
「いいのー?進藤ー。彼女取られちゃってさぁ」
誰が誰の彼女だって?
勝手に決めんなっつの。
だけどそう言っても無駄なことも、言えば尚更騒ぎ立てられるということも知っている。俺はこいつらの噂を制止するように席をたち、関係ねぇよ、とだけ呟いて逃げるように教室を出た。
いいもくそも無い。
取られるも何も自分のものになったことなんて無い。
あかりがどこで誰とどうしようと、俺には関係の無いことだ。
『駅前のスタバで二人で楽しそうにしてたよ!』
(―――だから何だってんだよ!)
募った苛々を解消する方法なんて碁以外に知らない。だけどサボってそれをするわけにもいかない。授業に出られる日にはきちんと出ること。それがプロになる時に担任に約束したことだった。
案の定、何も静まらないまま廊下に、校舎中にチャイムが響き渡る。授業開始の、5分前の予鈴。
俺は苛々を胸に残したまま、無残にも鳴るチャイムにきびすを返した。
* * * * *
「くそっ」
声と同時にばさっと音を立てて学ランの上着を椅子に、鞄を机に適当に放り、俺はベッドに仰向けになる。欠席が多いことで担任に呼び出され、結局帰ったのは日が暮れた頃だった。季節は秋で日暮れが早いとはいえ、あまり嬉しいことじゃない。夜道を歩けないなんてそんな女みてーなことは言わないが、それでもただでさえかったるい学校なんだから出来れば日暮れ前に帰りたいものだと思う。
(……疲れた)
ため息をつき、天井を見る。目に映るそれはただ何も無く、ボーっと見るには丁度良かった。が、それも時と場合によるらしい。
昼間の会話が頭の中をよぎってはまた繰り返し、考えたくもないのに思い出してしまう。
(彼氏、ね…)
(ま、アイツ何気にもてるしな)
俺にしてみれば何処がいいのか、疑問以外のなんでもなかった。だけど聞きたくなくても聞こえてくる。藤崎って可愛いよな、とか。あいつ藤崎に気があるみたいだぜ、どうする?とか。幼馴染だからっていちいちそんな話をしなくとも、と思うが言ってくるのだから仕方ない。
そうして、心中で何度目かの同じ言葉を呟く。
俺には関係ないけど、と。
もう一度繰り返したそのとき、下から聞こえる呼び声にヒカルは耳を澄ました。
「ヒカルー!おつかいお願いー!」
要点だけを伝えたその言葉に、俺はふぅ、とため息をついてベッドから立ち上がる。いつもなら忙しい!と断るところだが、なんとなく外に出たい気分だった。おそらくスーパーか何かだろう、それなら部屋着で構わないと、俺はいつものジャージに着替え、部屋を出ながら声の主に応える。
「なに、お母さん」
「これ届けてきてくれない?忙しい?」
そう言ってお母さんは袋一杯に入った梨を差し出す。たぶんどこからか送られて来たんだろう。毎年この季節になると送られてくる。おすそ分けに、と受け取ったそれはやたら入っていて多少重かった。
「いいけど、どこに?」
「あかりちゃんち」
しまった。
と、思ったがそこで断るのも明らかに不審だ。
俺はしぶしぶ、分かったとだけ言い玄関へと向かう。
あいつだって部活とかあるだろう。まだ帰ってないかもしれない。そう思い、あかりが居ませんように、と祈りながら、家を出た。
* * * * *
「あれ、ヒカル珍しいねー?」
玄関を出た早々、迎えたのは他でもないあかり本人で。俺は思わず、ゲ、と漏らす。
「げ?」
「いや、なんでもない。お前部活は?」
本来ならそんな時間か、もしくは終わって帰ってくるような時間だ。あの場所へ…理科室へ、行かなくなって大分経つがが、それぐらいのことは覚えているし知っている。何度も戻りたくて、戻ろうとして。それでも戻れなかったあの場所をずっと遠くから見てたんだから。
だけど帰ってきたのは予想外の答えだった。
「…もう引退したもん」
そう言うあかりは少し寂しそうで、その言葉に咄嗟に返事が思いつかず、そっか、とだけ呟く。だけど考えてもそれ以外の言葉など出なかったかもしれない。
そっか。
秋だしな。
そんな、季節なんだ。
自分が囲碁部に居た頃を思い出す。確かにそう、筒井先輩もそうだった。人の少ない囲碁部を心配して、頻繁に顔を出してはくれたけれどやっぱり秋には引退して。…その後のことは、あの教室から離れてしまったから知らないけど。
あの場所に行けば、みんながいる、なんてことはもう無いんだ。
俺はあかりを見て、小さく呟いた。
「お前も、引退か」
「うん、私も」
そう言ってあかりが静かに笑う。
始まりの場所。思い出の大切な、人と場所。あそこから始まって、背中を押してくれたのもあの場所だった。
俺がそこから抜けて。
そうして今、あかりも。
だけどいつまでもそんなことを思っても仕方ない。
俺は思考を振り切って、手に持った袋をあかりに差し出す。
「あ、これ。お母さんから、おすそ分け」
ガサ、と音がして差し出されたそれを、あかりが受け取る。
中身を確認して、ありがとう、と今度は嬉しそうに笑った。
「全部一人で食うなよ」
「食べないよ!」
両手塞がっていなかったら手が出されてたかもしれない。あかりは言葉だけで対抗して、ヒカルこそ!と付け加える。
だけどやっぱり、俺ですら重たかったのだ、あかりには尚更、重たいだろう。それに気づいて、早々に退散をしようとするが、ふと思い立って引きかけた足を止める。
「ついでだし、これから打たねぇか?」
引退したなら尚更打ってないだろう。他意はなく、それだけのつもりで。
だけど返ってきたのはこの上なく予想外なものだった。
「あ、ごめんね。今日は無理なの」
申し訳無さそうに、もう一度ごめんね、とあかりが言う。梨の袋が重たいんだろう、何度も持ち替えて持ち直してはガサ、と音を立てる。
「また今度打って、ね?」
今日は、無理、って。
「忙しいのか?」
「え、……うん、そりゃあ」
そりゃあ?
あかりは俺の質問に多少不思議そうにしながら、あたりまえのように答える。だけどその答えは、さっきまでの苛々を思い出させるには十分だった。
それはつまり、(カレシがいるから)ってことか?
あかりはあかりで、俺は俺。
何処で誰と何をしようが関係ない。
そんなことは百も承知で、――だというのに。
この、苛々は、なんだ。
途端に不機嫌になった俺の心中などあかりが推し量れるはずも無い。ただ不思議そうに見つめて、それが余計に苛々を募らせる。
――そんなこと。
言うつもりなどなかったんだと後悔するのは、いつも後になってから。
「…そいつはいいのに、俺はダメなんだ?」
「え?」
「デートしてる暇はあるのに俺と打つ暇はないってことだろ?」
一瞬の間。
その言葉に、あかりが怪訝な顔をして。
「…ヒカル?」
気がついたのは、そんなあかりの表情を見たときだった。
(―――――俺! 今、何言った…!?)
「デートって…」
「わり、何でもねぇ!帰る!」
あかりが聞き返すより早く吐き捨てるようにそう言って、俺は慌ててあかりの家を後にする。
(うわぁ…!何言ってんだよ俺…!)
取り消せるなら今すぐにでも取り消したい。あまりの恥ずかしさに、体がカッと熱くなるのを自覚した。
あかりの家から俺の家までは大した距離じゃない。
家に着いて早々、一目散に自分の部屋に戻って。
ドアを閉めたところで、そのドアを背もたれに俺は頭を抱えて座り込む。
「最悪だ…」
大体なんだ、あの言い方。同じ嫉妬ならもっと別の言い方があってもいいだろう。
それなのによりによって。あんな。
(ガキみてぇじゃねぇか…!)
思い返してもありえない。だけど言ってしまったのは事実で、思い出すだけで恥ずかしさでいたたまれなくなる。
あかりはどう思っただろうか。
あんな、子供染みた嫉妬みたいな。いや、子供だってもっとマシなヤキモチやくだろう。
これを嫉妬だと認めるわけじゃないが、それでも思わず出た言葉は明らかにそれだった。そんなつもりなどなかった。だけど意思に反して。それは溢れるように零れた台詞で。
「っあー…」
しまった、というようにそう声が零れた直後。
ポケットに無造作に仕舞いこんだ携帯が振動と共に音を鳴らす。
味も素っ気もない、機会音がくぐもって聞こえたのを確認して、折りたたまれたそれを開いてみればディスプレイには案の定。
(…あかりだ)
(どうしよう…って出ないわけにもいかないか)
ピ、と受信ボタンを押して携帯を耳に当てる。スピーカー越しに聞こえるあかりの声はすこしくぐもっていて、直じゃないことが余計に心臓に悪く思う。顔を合わすことなど出来ないが、声だけじゃ分からないのもまた事実で。ヒカルは全神経をそこに集中させるようにして、あかりの声を聞く。
『もしもし、ヒカル?』
「…何」
『断ったの、怒ったのかなって思って』
「…別に」
怒ったわけじゃない。それは事実だ。むしろそれよりももっと、――たちの悪いもので。
『そう?
ていうかヒカルは大丈夫なの?』
「何が?」
『…ヒカル、忘れてる?』
「だから何が」
『…明日から試験だよ』
携帯越しに呆れるようなため息が聞こえた。
あかりの読み通り、やはり、というかなんというか、…忘れていたわけで。
(明日からだっけ…!?)
「わ、わすれてねーよ!」
『嘘ばっかり』
「ホントだって!」
『はいはい』
懸命に否定するがそれが信じてもらえるはずも無い。分かっていても、悪あがきをせずには居られない俺も相当な負けず嫌いだと思う。俺の声が携帯のマイクに空しく響いた。
じゃあなんだ。
断ったアレってのは。
そりゃあってのは。
――試験勉強だった、ってことか?
あまりにもばかばかしくて、自分で自分を笑いたくなる。あかりが鈍くてよかったと、今ほど思ったことは無い。あんなこと。あんなくだらねぇヤキモチ。知られてたまるかってんだ。
『あとね、デートって何のことかよくわからないんだけど』
だけどあかりは方っておく気は無いらしい。
ごまかすことは難しくないが、むしろ聞きたいのは俺の方で。この際はっきり出来るものならしておきたいと、俺は躊躇いがちに答える。
「…お前が駅前で男とデートしてたって聞いたんだよ」
『駅前?…あぁ、塔矢君?』
「は?塔矢?」
何でそこに塔矢が。
『デートなんかじゃないよ!
この間偶然会ったの。でね、ヒカルの色んな話聞かせてもらっちゃった』
ヒカルいつも塔矢君と喧嘩してるんだって?と聞くあかりは大層楽しそうで、俺の気持ちなんて知る由も無いだろう。挙句に、ダメだよ仲良くしないと、となだめるようにそういって。
俺は盛大なため息をついた。
(ホント、最悪だ…)
勝手な噂に勝手にヤキモチまがいなものを妬いてあかりに八つ当たりして。
どうしようもないのにもほどがある。
悔しかったのか焦っていたのか、そんなことは分からない。
ただ分かっているのはあまりにも自分が子供じみていたってことだけで。
そしてもう一つ。
思い至って、もう一度、今度は軽く、ため息をつく。
『ヒカル?どうしたの?』
「…なんでもねぇよ」
そんな噂一つで、落ち着かなくなってしまうほど。
自分があかりを気にしてるってこと。
(―――勘弁してくれ)
なんとなく、…なんとなくだけど。
たぶんこの先も同じような苦労するんじゃないかって予感がして。
とりあえず、次に塔矢に会ったときには、叩きのめしてやると心に誓った。
*むしろあいつはいいの?って感じで。ケツに疑問符つける感じで。(無理やりだなオイ)
男は妄想する生き物だってAだちMつるがゆってました(笑)