31.5.いじめっ子

 鮮やかな輪郭を持って隔てるその境界線を為す術も無くただ持て余している。
 うっすらとペンキで塗りたくったような鈍い雲が、空一面を覆っている。雨が降ったら雪になるかもしれない。そう思わせるほど空気は冷え切っていて、手を顔を、容赦なく吹き付ける風は刺すように痛かった。
 隙間風を通すジャージは、それでも無いよりはマシで。ヒカルは襟を立てて、少しでも風が当たらぬようにして寒さを凌ぐ。
 中3となった今、体育も殆ど自由だった。画一されたそれではなく、与えられたコートと、与えられたボールで好き勝手動く。おそらくは受験勉強にストレスを溜めた生徒たちへの配慮だろう。それは受験と無縁なヒカルにとっても、普段碁盤の前でひたすらジッとしている身には、丁度良い運動だ。

 億劫な準備運動を終えた後、各チーム毎に作戦会議でもしているのだろう、あっちこっちに出来た集団からセンターだのキーパーだのと聞こえてくる。
 その傍らで、ふと、視界にゼッケンを数える当番が目に入る。体育道具の準備は出席番号順に周ってくる当番の役目で、彼はその片割れだった。


「どうした」
「あー、ゼッケン足りねぇや」


 そう言われ、赤と黄色に分けられたそれをヒカルは見る。確かに、これだけの人数にしては若干量が少ない。


「いいよ、じゃあ俺が取ってきてやる」
「わりぃ」


 ヒカルの言葉に、そのクラスメイトは色分けしたゼッケンを持ち片方を他のクラスメイトに配り始める。今日の種目はサッカーで、敵味方の区別が付かなくては難しい。
 ヒカルはそんなクラスメイトたちを尻目に、体育倉庫へと走った。
 頬を掠める風はこの上なく冷たいが、相反して体は熱くなる。白い吐息を大きく吐き出し、数回と繰り返すうちに目的の倉庫へ辿り着く。
 ゼッケンは何処だっただろうか。
 そう思い倉庫に近づいたときだった。

『もー!何すんのよ!』
『ははは!』

 聞き覚えの無い女子の声と、聞き覚えのある男子の声。男子の方はクラスメイトだ。そう確信すると同時に、見覚えはあるが知らない女子が倉庫から怒った風に出てきた。たぶん、隣のクラスの誰かだろう。同学年と言えど、同じクラスにならない限り滅多に覚えることは無かった。
 その女子が走り去っていくのを見届けて、ヒカルは倉庫内へ入る。
 居たのは案の定、当番の片割れのクラスメイト。


「あれ、進藤」
「ゼッケン足りねぇってよ。何処にあったっけ?」
「あぁ、その辺じゃねーか?」


 そう言ってクラスメイトが指で示す。そうして彼自身はよいしょ、とスコアボードと白線引きを両腕に抱える。
 ヒカルは示された場所に視線を泳がせ、それらしいカゴを見つける。たぶんあの中に入っているだろう、と確信して、ボールやポールを避けてそのカゴを覗き込む。


「あったあった」


 スーパーのカゴのようなものに入ったそれを、ヒカルはカゴごと持ち上げる。一体どこで貰ってくるのかと、最初見たときは疑問に思ったものだが。スーパーの名前が書いていないということは少なくとも勝手に持ってきたものではないだろう。
 それを抱え、クラスメイトに続いてヒカルもまた倉庫を出る。
 倉庫に遮られていた風がまた体を打ちつけ、走って暖まった熱を容赦なく冷やしていく。

 隣にはやけにご機嫌なクラスメイト。
 別にそれがカンに触るというわけではない。ただ、なんとなく、…これはなんというのだろう。あえて言うなら…

(微妙?)

 何が、ともつかない表現だがそれが一番適しているように思えた。
 怒った風に去っていった知らない女子と、ご機嫌なクラスメイト。
 彼の心中は察するが、ガキみたいだ、とヒカルは思う。身に覚えがある分、人のことを言えた義理ではないが、おせっかいだとは思いつつも釘を刺すようにヒカルは言う。


「あんまやりすぎると嫌われるぜ?」
「は?何だよ突然」
「さっきの子」


 好きなんだろう?とは言わずに置いた。そんなことは言わなくともきっと彼には伝わっただろう。
 ガショガショと、歩調に合わせて白線引きが規則正しく音を立てる。


「…うるせぇよ」


 照れたように小さく呟くクラスメイトを横目で見れば、その頬は確かに赤くなっていて。寒さのせいかもしれないが、それでも口調から照れていることは明白だった。
 ヒカルはそんな彼の様子がおかしくて、更に言葉を続ける。


「で、どうすんだ?」
「あ?」
「卒業だろ、もうすぐ」
「っあー…」


 季節は既に真冬を向かえ、卒業まではもう間もない。小学とは違い、それは確実に別れを伴うもので。そんなことは、おそらく受験を控える彼とて嫌というほど身に染みているだろう。
 それでも敢えて言葉にするのは、それが迫りくる現実なのだと、再確認するため。
 終わりたくないのであれば、続けるための何かを、しなくてはならないのだから。


「どうすっかなぁ…」


 それはおそらく、彼が自身へと呟いた言葉。迷っている自分に、問いかける言葉。
 そうしてそれはヒカルにも、なんとも言えない郷愁のようなものを胸に感じさせた。


「つーか、お前はいいよなぁ」
「は?俺?」
「幼馴染なら別に進路違ったっていつでも会えるんだし」


 予想外の返しに、ヒカルは戸惑う。幼馴染ということは、自分とあかりのことだろう。咄嗟に何と返して良いのか分からず、ヒカルは言葉を濁した。

 噂の本人は今は授業中で。暖かい部屋の中で、もしかしたらくしゃみでもしてるかもしれない。
 そう考えて、そういえばここ1週間ほど、会っていないことを思い出す。


(いつでも会える、ね)


 それは確かにある意味その通りで、ある意味違うのだろう。
 近くても生活の時間帯が重ならなければ顔を合わすことはないし、事実学校がある今それは重なっているはずであるのに、もう1週間も顔を合わせていない。それでも、会おうと思えば会えるのだ。

 だけどたぶん、問題はそんなことではなくて。


「そうでもねぇよ」
「そうか?」
「…俺はお前のほうが羨ましいよ」


 ヒカルはそれだけ答えて、遠くを見るようにコートへと視線を遣った。そんなヒカルの様子を察したのか、彼もまたそっか、とだけ返事をして。持っていた手が疲れたのか、スコアボードを持ち直す。そのはずみで、白線引きがまたガショ、と音を鳴らした。

 あまりにも曖昧すぎるその関係はぬるま湯に似ていて。
 出るに出られないのは今その場所が気持ち良いからなのか、それとも寒さを恐れてか。
 いっそ自分がぬるま湯に居るのだと、気づかなければ良かったのかもしれないとヒカルは思う。

 視線の先に、ゴールにネットを張り終えゼッケンを付けたクラスメイトたちがそろそろだと準備を始めているのが映る。そうしてフェンスを挟んだその向こうでは、女子がバレーの準備をしていた。寒そうに手までをすっぽりジャージの袖に入れて、談笑する声が聞こえる。
 それがやけ遠くに聞こえるのは、一体どうゆう心境なのか。

 だけどただ一つだけ分かっているのは。


「サンキュ、進藤」
「あぁ、ここでいいか?」
「おう。あ、自分の分持ってけよ」
「了解」


 そう言って、降ろしたカゴからゼッケンを一枚取り出して、ジャージの上からそれを身に付ける。
 着易いように腕を上げ、その拍子に視界に入った校舎が目に留まり、あかりが居る教室をヒカルは無意識に目算する。
 中までは見えないが、通いなれた校舎だ。たぶん、あの辺りだ、とヒカルは確信する。


 隔たれたフェンス。
 その境界に気づいたのはいつだったか。

 白いラインが澄んだ空気に映えて。
 それを引いたのは自分だったのかもしれないと、ぼんやり思う。



 だけどただ一つ、はっきりと分かっているのは。





 ――幼かった自分と、そうじゃなくなってしまった自分。





 彼のように――あの頃の、自分のように。

 無邪気に近づいて触れることは、もう。





 冷えて固くなったような空気が、全身を包む。吹く風は冷たく、肌を傷めては過ぎ去っていく。
 ヒカルは手を強く握り、唇を固く結んで。
 踵を返し、自分を呼ぶクラスメイトの言葉におうと答えて走り出す。





 そうしてヒカルは、いつか、と思う。

 決して遠くないいつかの未来に。



*最初は単純に加賀がヒカルをからかうネタだったんだけども雰囲気作りたい気分になったのでお前いつまでいじめてんだYO!って話がいつのまにかああなりました。(あれー?)
いじめっ子がいじめっ子じゃなくなる時、みたいな感じで。
個人的には前に書いた卒業式に続く、って感じで。