35.きってもきれない

 電話には出なかった。
 滅多に寄越さないその珍しいメールにも返事はしなかった。
 訪ねて来たときには居ないって言ってと居留守を使って。

 バカなことしてるって自覚はあったけど、嫌われるかもしれないって恐怖心はあったけど。

 ――だけどどうしても、あなたに知って欲しかったんだよ。
 人少ない家はそれだけで静かなのに、人が居なければよりいっそう静かで、生活感は溢れてるのに誰も住んで居ないんじゃないかって錯覚させる。唯一居るはずの人も、今は静かに寝息を立てているみたい。
 私は出来るだけ音を立てずに、静かに…息を殺すようにして。階段を一つ一つ上る。
 そうして、階段を上って一番手前の部屋の前で私はただジーっとそのドアを見つめた。

 切欠は些細な事だった。
 きっと本人からすれば、そんな大したことじゃなかったんだと思う。
 私がどう思うかなんて、考えもしなかっただろう。
 分かってる。
 分かってた。
 そうゆう人だってわかってたけどでも。

 延ばした手が、ひんやりと冷たいドアノブに触れる。

 寝てるなら、きっと会ってもヒカルには分からない。
 無理矢理頼まれたお使いに、だけどおばさんが出かける直前で、でもヒカルは寝てるからおばさんは起こして良いわよって言ってくださったけれど。
 まだ、もう少し、会うつもりは無い。だけどやっぱり会えないのは―――寂しくて。

 カチャリ、と小さく固い音がして。
 私は出来るだけ音を立てないよう、ゆっくりとドアを引く。

 すっかりとお昼寝モードなのか、ドアもカーテンもきっちり閉めて。だけど布団は中途半端に蹴ったまま、部屋のベッドで寝息を立てるヒカル。
 時折外から甲高い子供の、何かを自慢する声が聞こえるけど、それすらも睡眠のためのBGMにしかならないようで。ヒカルは身じろぎもすることなくただ静かに寝入っていた。
 私は後ろ手に、やはりゆっくりと静かにドアを閉める。
 目に映る、懐かしいヒカルの横顔。

 切欠は本当に些細な事だったけれど。
 私にとってはとても大事なことだった。


『はい、これ』
『なに?』
『中国の土産』
『……え、中国って…?』
『この間親善試合があったんだよ。
 2、3日の筈だったんだけどさー、伊角さんに中国棋院の知り合い紹介してもらったらついつい長居しちまって』
『……じゃあ、ここしばらく連絡しても出なかったのって…』
『あ、わりぃ。流石に海外じゃ電波通じねぇよな』


 そう言って、無邪気に笑ったヒカルは昔と何一つ変わらない。
 背を伸ばして、少し大人びて。
 仕事で大人と接する機会が多いせいか、視野も広くなって。
 子供の頃のそれとは違う、広い世界を知るようになって。
 だけどヒカルはヒカルだった。
 幼い頃からずっと見てきたヒカルだった。
 変わったけれど、変わらないんだって気づいてすごく安心したのを覚えてる。

 でも。


 ―――ねぇ、ヒカル。

 ―――私は一体あなたの何なのかな。


 敷かれた絨毯が私の足音を人知れず消して、私は音を立てずにヒカルに近づく。
 憎らしいぐらい、安心しきってるその寝顔に私は見入る。
 もうどれくらい会ってないだろう。長く感じられるその時間は、それでも世間的にはあまり経っていないのかもしれない。夢を見るヒカルの様子は、以前会った時と何も変わらない。
 変わらないから、少し泣きたい気持ちになる。

 ただの友達なら良かった。
 そうしたら友達と恋人の境界線なんてきっとはっきり見えたんだ。
 幼馴染なんてロクなもんじゃない。
 幼馴染で恋なんて、するもんじゃなかったのかもしれない。


「……どうして、言ってくれなかったの…?」


 忘れてたとか。言う必要は無いと思ったとか。
 きっとヒカルにとってはそれだけの事なんだって分かってる。
 だけどそれは理性の話で、―――感情は。


 私はあなたの恋人ではなかったのですか。

 私はあなたにとってただの幼馴染のままですか。


 窓の外から、子供の笑い声が聞こえる。たぶん、塾帰りの子供たちだろう。話してる内容はよく分からないけど、それが他愛ないことだということは分かった。

 涙が、少し、目元に溢れて。

 私は息をのんで、溢れるのを堪えて少し目元を拭った。


 遠くに行くなら行くって教えて欲しかった。
 一言で良かったの。
 行って来るって。
 それだけで良かったのに。

 ―――私だけが、いつも何も知らないのよ。

 その度に私がどんな気持ちになるかなんて、ヒカル、考えたことないでしょう?


 ゆっくりと、また一歩ヒカルへ近づいて。
 ヒカルが眠るベッドのヒカルの居ない隙間に腰掛ける。
 ギシ、とスプリングの軋む音がして。
 ヒカルの頬を、そっと撫でるように指先で触れた。


「…ヒカルの、バカ」


 そう言って、私はヒカルの寝顔を覗き込むように、ヒカルの顔の横に手を置いて体重をかける。
 もう一度、軋むベッドの音が耳に届いた。

 ずっと会わなくて会えなくて、私もどうかしていたのかもしれない。

 それは思った以上に衝動的で、考えなんて何も無かった。
 ただヒカルに触れたかった。ただヒカルのぬくもりを感じたかった。


「ヒカル…」


 落ちる髪を防ぐことも忘れて、ヒカルの頬に口付けをする。
 その体温が、唇に気持ちよかった。
 それを放すのが勿体無いと思うくらい。
 どこか、嬉しくて、――切なくて。
 私は希うように、小さく呟く。


「ヒカル…」


 もう一度、今度は指先でヒカルに触れて。


 ―――その瞬間。


 世界が反転したかと思うと目の前に映る全てはヒカルだけだった。


「ヒカル…!?」


 突然の展開に、何が起こったのかわからない。

 結わずにおろした髪をヒカルが軽く引っ張って、その衝動で私はヒカルの方に引き寄せられて。
 痛い、と抗議する間もなく言葉は飲み込まれる。

 唇に感じる、ヒカルの熱。


 ね、寝てたんじゃなかったの…!?


 狸寝入りには見えなかったのに、完全にだまされた。
 精一杯抵抗しようと、ヒカルの胸を押しのけるのにびくともしない。
 それはどんな言葉より乱暴なもので。

 訳が分からず、だけどやっとで抵抗して目に映ったヒカルは。
 私の見たことのない、……とても、切なげな顔で。
 小さく、絞り出すような声で呟いた。


「あかり…」


 好きだって。
 まるでそうささやくように。


「ヒカル…」
「お前が、悪いんだからな」
「ヒカ」
「―――嫌か?」


 ……やだ、泣きそう。
 涙が溢れそうになるのを見られたくなくて、――ヒカルを、見てられなくて。私はヒカルから視線を逸らす。

 嫌、だなんて。
 どうしてそんなこと思うと思うの。


 ずっと聞きたかった事があるの。
 ずっと、知って欲しかった事があるの。

 私はあなたの何なのかって。
 私がどれだけあなたを思っているのかって。


 ヒカルから視線を逸らしたまま、私は小さく首を振った。















 不安だったの。


 近づいたはずなのに遠くに感じて、とても不安だった。


 幼馴染じゃなければ良かったって思った。


 恋人になっても幼馴染のままなら友達の方が良かったって。


 そう言ったらヒカルが笑った。




『バカだな、あかり。幼馴染だからいいんだよ』


 ――どうして?


『…いつかもし、……ゼッタイありえねぇけど、もし。いつか俺とお前が別れる日が来たとしてもさ』


 ――…


『俺たちの関係が切れるわけじゃない。幼馴染だから、どんなことがあっても』


 ――ヒカ…


『俺たちは続いていくんだ』




 それは誓いにも似た約束の言葉。


 それなら、ヒカル。私も約束するよ。










 病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで

 あなたの幼馴染として側にいることをここに誓います




*例えば知らないうちに遠くに出ててその先で何かがあったらと思うとゾっとします。
つかずはなれず、という関係を望んでいるわけではないけれど、例えばそれが友人であっても知らないよりは知っているほうがいい。突然音沙汰がなくなって心配するのに本人はケロっとしてるなんてよくある話。友人ですら寂しいと思うのに恋人なら尚更。
私はそう思います。
ちょっと大げさかな、とも思ったんだけど、それぐらい不安だったって事、伝わると良いのですが…。

幼馴染でしか出来ない恋があると思います。
幼馴染の恋は幼馴染でなくなるのではなく幼馴染兼恋人なのです。