眠れない夜がくれたもの

 こんな気持ち、知らなかったよ。
 (あつ…)


 夏の強く照りつける日差しにうんざりしながら、僕は徒歩で帰路についた。いつの間にこんな季節になっていたのか。太陽が少しだけ傾きかけている時分、それでも日陰を選んで歩けば幾分か涼しい。
 『綾姫』が死んで、最近ずっと外出を控えていて。いくら男装しているとはいえ、まさか死んだ筈の人間がそう気安く出歩くわけには行かない。
 久々の外出。院の御所へのお使いだっけど、それでも気軽に出歩けるのは嬉しい。お姫様をやってる時はジッと静かにしていなくてはならなくて、窮屈で仕方なかった。当たり前のことだが結局自分は男であったのだと妙に実感する。

 裏門から邸に足を踏み入れる。鼻腔に馴染んだ母様の馨りがかすかに流れて来て、いつもの家だな、とどこか安心した。そうしてふと、正門の方へ視線を移すと見慣れた牛車がそこにあった。

 (父様が来てるのか…)

 事件の後、父様は以前よりずっと頻繁に桂花院へ通うようになった。
 そうして、気付いた事がいくつもある。
 父様が母様を大事に想っている事。
 ただ不器用なだけで、家族を大切に思ってくれている事。
 潔いとも思った。
 騙して欺いて、その結果父様にも迷惑をかけた。後で宮様に、官位を変換すべきか、と問うた事を聞いた。あれだけ見栄や出世欲の強かった父様が。

 ――そして何より。


 二人を驚かそうと思いつき、二人が居るだろう部屋の隣の部屋にそっと足を忍ばせる。馨りが強くなる。母様と父様の馨り。そろそろと静かにふすまに耳を寄せたら、父様と母様と――楓の声が聞こえた。


「貴方には、感謝せねばなるまいな」
「いえ、そんな…」
「本当に。貴方にはどんなにお礼をしても足りないくらい…」
「二ノ宮様…」


 感極まった楓の声。耳に優しいその声音で、涙ぐんでいるのだと分かった。声を気配を潜めたまま、三人の話し声に耳を澄ます。


「――何か、望むことはあるだろうか」
「いえ、何もっ…」
「遠慮しないで頂戴?私にとって、貴方はもう一人の娘なのだから…」
「二ノ宮様…!」


 楓がこの邸に来て以来、僕らは姉妹のように育った。楓は時に姉で時に妹で、……そして初めて意識した大切な女の子。
 ずっとずっとあのままで居られるなんて思っていなかった。
 例え楓が僕を好きになってくれたとしても。
 僕は『綾姫』で。
 楓はその身代わりをしていて。
 このままじゃいられないって分かってた。
 わかっていたけどそれでも。
 ……好き、だったんだ。
 ―――その思いが叶う事は無かったけれど。


「……ならば、一つだけ宜しいでしょうか」
「うむ、何なりと申せ」
「どうか、葵様を―――」


 ―――僕?


「葵様を、御願いします」
「御願いしますって…どういう事かしら?」
「あのっ…上手く言えないんですけど…その…」
「その、何だ?」
「殿、その様に急かしては…」
「あ、あぁ。すまぬ」
「いえ、その……葵様には、どうしても幸せになっていただきたいんです。私は、あの方が苦しんでおられるのをずっと間近で見て参りました。私にとって、葵様は兄であり弟なんです。だから―――」
「楓…」
「――み、身分もわきまえず…申し訳ありません」


 その言葉と同時に、衣擦れの音がした。たぶん楓が頭を下げたのだろう。
 ……そんな、こと。
 しなくてもいいのに。
 言わなくてもいいのに。
 胸が熱い。
 喉に熱いものが込み上げてきて痛い。
 痛いよ、楓。


「大丈夫よ、楓」
「…二ノ宮様?」
「私もびっくりしたのだけどね」
「宮?」
「殿が――姫を…いえ、葵を初めてお目にかけた時。迷うことなく『綾姫』だとお分かりになられたでしょう?」
「あ、あぁ…当然ではないか」
「いいえ。私――とても嬉しかったのですよ。一度で御見抜きになられたのは、殿だけでしたもの」
「そ、そうなのか?」
「はい」


 ―――わかった事がある。

 父様が母様を大事に想っている事。
 ただ不器用なだけで、家族を大切に思ってくれている事。
 潔いとも思った。
 あれだけ見栄や出世欲の強かった父様が官位を返上するべきとまで覚悟していた事。

 それから――――


 ガタンっ


「―――誰だ!?」
「私、見て参りますわ」
「いや、私が見てこよう。貴方は宮を頼む」
「何者だ――――――……葵!?」


 物音に驚きふすまを空けた父様が僕の姿に気付いて、驚きの声を上げた。そうして続けて、母様と楓が僕を呼ぶ声が聞こえる。皆酷く慌てていて。…何もそんなに驚く事無いのに、さ。あまり驚くものだからそんな皆を呆然と見ていたら、母様が僕の肩にそっと手を置いてこう言った。


「葵、何かあったの?」
「何かって…何も無いけど」
「じゃあどうして泣いてるの」


 ……泣いてる?
 誰が。
 僕が?
 言われて目元を拭うと確かに濡れていて、自分でも驚いた。
 ――いつの間に?
 だけど自覚した途端、涙は際限なく溢れて。


「あれ?おっかしいな…」


 泣くつもりなんてないのに。
 そう言おうと口を開こうとしたら自分の意思とは裏腹に零れそうになる嗚咽を堪えるのに精一杯で強く固く口の端を結んだ。


 ……分かった事が、あるんだ。
 ずっとずっと気付かなかった。
 知らなかった。

 自分が、こんなにも、愛されているだなんて。

 ―――ずっとずっと、要らない子だと思っていたから。

 胸にあった熱いものが喉に込み上がってきて痛くて痛くて仕方ない。息が詰まって、でも嗚咽が零れるのは嫌だなって必至に堪えて。それでも零れる涙は止まらなくて、母様が袖の端で涙を拭ってくれるもんだから余計に泣けた。

 皆が嫌う満月の夜。
 誰も居ないから誰も見ないから、一人縁側に出て静かに泣いた。
 零れた涙は拭う事もしなくて、拭われる事もなくて、
 ただ音も無く頬を伝った。

 それは例えば蛍の飛び交う夜だとか。
 柔らかい青で空が染まる優しい朝焼けだとか。
 そんな他愛もない事が時折どうしようもなくこの胸を切なくさせた。

 少しだけ年をとって少しだけ大人になって泣く事は無くなって、それでも傷が軋む事がやむ事はなくただ無言で痛む胸を抑えてた。


「葵…?」


 母様はそう言って気遣いながら、静かに僕を抱きしめた。そんな、子供みたいなこと。いいのに。…恥ずかしい。そう思ったけど拒絶は出来なくって。


「私、お水貰ってきますね」


 その言葉と同時に衣擦れの音と静かな足音が聞こえる。楓は、ほんっと、気遣いの上手い人だな、と思う。相手が冬弥じゃなくってもっと全然駄目な奴だったら問答無用で僕が楓を貰ったのに。


「全く、男子たるものそうそう泣くもんではないぞ」


 そう言った父様の口調はそれでも何処か優しくて、本当に、数ヶ月前のあの父様は何処に行ったのかと思う。父様じゃないみたいだ。らしくない。……気味、悪いっての。それでも嫌な気持ちになんてならなくて、そんな自分に驚きながらもそれもいいかな、と思う。


「は…はははっ…」


 不意に込み上げる笑い声に、母様と父様がきょとん、として。どうしたんだ葵は、さぁ、とか言い合ってる。
 ―――うん、わかんなくっていいよ。
 僕だってわかんないもん。

 こんな、―――泣きたくなるほど嬉しいような気持ちなんて。

 こうゆうのを、胸が弾むっていうのかな。胸が踊る、だっけ?こんな安っぽい家族模様でこんな気持ち、認めたくなんかないけど、でもやっぱり嬉しくて嬉しくて仕方ない。どきどきするんだ。わくわくする。この先何が起こっても、もうきっと迷わない。
 だってあんだけ苦労してやっと手に入れた幸福なんだからさ、これ以上のどんでん返しなんて神様がどんなに意地悪だってきっとしないよ。

 『葵』の未来に何があるのか。
 分からないけど、でも。


「…葵様?お水お持ち致しました」
「ありがと、楓」


 そう言って器を受け取り、一気に口内に流し込む。痛くて熱をもった喉に冷えた水が気持ちいい。流れんだ水が体の中を輪郭をなぞるのを感じて、一息ついて。
 小さな小さな声で、ポツリと呟いた。


「……ごめん、ね」


 親不孝者で。たくさんたくさん迷惑かけて。
 でも。


「ありがとう…」


 ―――愛してくれて。
 大切に、思っていてくれて。


「葵?」


 何て言ったの、と母様が促す。だけど僕はそれに答える代わりに、涙を乱暴に拭っていつもの様に笑って見せた。

 訪れる未来が。
 どうかもうこの大切な人たちを苦しめる事の無いように。

 僕は柄にも無いなと思いながらも、静かに祈った。