薫風

 世界が色づくよりも早く目を覚ました彼は、しばしの沈黙の後、短い嘆息を漏らした。


「そういえばもう、居ないのだったな」


 いつもとは違う朝。ずっと以前には当たり前だったけれど、でも最近とは違う朝。悲しいわけではないけれど、それでもどこか寂しい気持ちになるのは、彼にとっては久しい事であった。
「宮、如何なさいましたか?」


 まだわずかに少年のそれを残したような声で問う、青年と呼ぶにはまだ早いような印象を受ける彼は、その役職と身分から宮中で良く『弾正尹宮』と称される。目の前に佇む、馴染みの青年が珍しくもボーっとしているのが些か気になったようだった。


「ああ。なんでもない―――」


 ハラリ、と扇を広げて薄く笑う彼は、弾正尹宮同様その役職と身分から『中務郷宮』と呼ばれる。本名は別にあるのだが、例外を除いて、普通役職の名で呼ばれる事が多い。


「そうですか?珍しく呆けているご様子でしたから……まぁ宮が相手では、物の怪も裸足で逃げ出すでしょうが」


 言って弾正尹宮はくすりと笑う。相も変わらず可愛らしく笑うこの人は、男女問わず、この宮中ではアイドル的存在である。本人がそれを自覚しているかどうかはともかく、資質もとよりその所為もあってか、世渡り上手でもあると自他供に認められている。


「――心外だね。裸足で逃げられた事などというオモシロイ体験はまだ一度も無いのだが」


 そう答える中務郷宮もまた、顔立ちの整った青年だ。今東宮と寸分違わぬ容姿であるとのことだが、彼が幾度か今東宮と入れ替わって居るにも関わらず、その事実を知る者が少ない事からも、それが事実である事は伺える。

 夏と言えど、日差しを避けていれば幾分暑さを凌ぐ事が出来る。天上に上る前の斜陽を避け、木陰にてしばしの談笑を二人は楽しむ。
 目の前に流れる木の葉の雫を扇に受け、少し転がして、再び地面へ落とす。そんな中務郷宮の所作を眺めながら、目を細めて懐かしむ様に弾正尹宮は言う。


「姫は、お元気にしておられるでしょうかね」


 姫、とは先日、東宮妃になるべく入内した内大臣の養女のこと。そしてその入内まで、中務郷宮邸にて住まわれた沙桐という名の、少女の事。


「姫の事だから、きっと東宮御所でも元気に飛びまわっているだろうね。宰相の局が諌める様子が、目に浮かぶよ」


 雫で遊ぶのをやめ、再び扇で口元を隠しクスクスと笑う中務郷宮に、弾正尹宮も、そうですね、と相槌を打つ。
 いつだって元気で明るくいた彼女だ。場所が変わっても、そんな事は物ともせずに、きっと変わらず居るだろう。
 中務郷宮は、自分の屋敷に居た頃の彼女を思い出す。まるで姫らしくない、彼女の様子。どたどたと、足音を少しも静めることなく自分の部屋へ駆け込んできた。そうしてその度に、教育係である宰相の局に怒鳴られて。


「―――寂しいですね、やはり」


 そう言ったのは弾正尹宮。自分達が彼女と一緒に居たのは、経った1年にも満たないほどの時間だ。長く生きたわけではないけど、それでも今まで生きてきた時間に比べれば、ほんの僅かな時間。
 だけれど、もし自分が親になって祖父になって、子供や孫に昔の話をせがまれたら、きっと自分はこの1年間の事を話すだろうなと、弾正尹宮は思う。きっと宮も同じだろうな、とも思う。大変だったし苦労もてんこもりだったけれどそれでも、とても楽しかったから。時間が輝くものであるとしたら、姫と出会ってからの時間は確かに、輝いていたのだと断言できるほど、楽しかったから。
 中務郷宮は答えず、ただその口元に微笑を浮かべた。その目に移るのは深緑の葉と葉を伝う雫。


「今夜は、我が邸で宴会というのはどうだい?」


 答えぬ代わりに、提案をする。
 他意はない。―――いや、全く無いというわけでもないかもしれないが、とりあえず無い。ただ単純に、呑みたい気分だ。誰かと杯を交わして、月を見るのもいいだろう。月が不吉であるなどと、この際どうでも良い。
 弾正尹宮も、中務郷宮の心中を察ししたのか、若しくは自分もそう思っていたのか。にこりと笑って答える。


「いいですね、ソレ。――勿論、宴の後は帰りますが?」
「ふふっ。遠慮しなくても良いのだよ?」
「い―――えっっ。全力で謹んでご遠慮申し上げますっっ」


 いづれまた、近いうちに会うことが叶うだろう。それでももう、彼女が邸を走り回る事など無いだろうから。

 昨日とは違う明日。
 先は長いが、だけどまだ、慌てることは無い。

 ―――深緑の薫る、斜陽がまだ柔らかい夏の朝。