あなたのとなり
「ひ・さ・ぎ。おはよー!」
もうすっかり定着した殿上童の姿で沙桐が降ろされた簾を避けて顔を出す。その姿を見て私も自然と顔が綻ぶ。
おはよう、と、挨拶を交せる事のなんと幸福な事だろう。
それすら叶わない朝もあるのだと知っているから。こんな他愛も無い瞬間すらも愛しく思う。
その幸福を噛み締めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おはよう。よくきたね」
そう言った瞬間、沙桐の顔がぱぁっと明るくなる。そうやって笑む姿はまるで春の陽だまりのようだと、いつも思う。暖かくて、幸せな、朝。
「おはようございます、東宮」
沙桐に続いて、静かな落ちついた声でそういったのは中務郷宮。扇を口元に当てるいつもの仕草で悠然と笑んで立っていた、自分と同じ姿のその人。
「おはよう、宮」
そう言うと、失礼します、と言って簾を避け部屋に足を踏み入れる。沙桐もそれに倣って、失礼します、と声をかける。男装までして殿上させるのに最初は些か不安であったが、お后教育と同様に彼女の為になったのかもしれないと思うと、少しだけ複雑な気分だ。
姫を人前に晒すことは例えどんな事情があろうとも、好ましくない事で。
それは今でもそう思っているけれど、でも。黒く長い髪を踊らせ元気に走り回る薫の楽しそうな姿が何よりも嬉しいから。仕方ないか、と苦笑する。
―――それでもやっぱり、無茶はしないで欲しいのだけど。
そうしてあれやこれやと言葉を交わして。用事も済んで、そろそろ、と退出すべく席を立つ二人を笑って見送る。
「じゃあね、陽朔。またねっ」
「失礼致します」
そう言って沙桐は元気良く、宮は静かに廊下へ向かう。簀子に立って再度振り返り、沙桐は手を振り、宮は軽く頭を下げた。それに応えるように私も手を振る。
そうして二人で去って行く後姿を見つめる。
遠くなっていく足音。
ねぇねぇ宮様、と明るく話す沙桐の声が何故か胸に切なかった。
溜息を一つ落とす。
そういえば以前沙桐が、溜息をつくと幸せが逃げるんだよ、と言っていたのを思い出し慌てて口を押さえ、苦笑する。
笑い声が静かに部屋に落ちて。
傾きかけた夕陽が邸の回りに立つ木々の間をぬって部屋を明るく照らす。
そうして先ほどまで沙桐が座っていた辺りにちらり、と視線をやる。
帰っていく後姿。
隣に立つのは、私ではなく。
どうしようもないことだと分かっていても。
考える。
――もしも私が東宮でなかったら。
ただの貴族であったなら。
皇族などではなくて。
――そうしたら貴方の隣を貴方と並んで歩く事が出来たのだろうか。
…本当に、仕様の無い事だ。
そう思って自嘲するように笑う。
私が東宮で。
彼女が貴族の姫君で。
だからこそこうして出会えたのだ。
それは重々と承知している事。
―――だけどそれでも。
貴方の隣を並んで歩きたいと思うのは許されない事だろうか。
貴方の隣で歩く彼らを。
羨んで仕方ないのだと知ったら貴方はどんな顔をするだろうか。
もうすっかり定着した殿上童の姿で沙桐が降ろされた簾を避けて顔を出す。その姿を見て私も自然と顔が綻ぶ。
おはよう、と、挨拶を交せる事のなんと幸福な事だろう。
それすら叶わない朝もあるのだと知っているから。こんな他愛も無い瞬間すらも愛しく思う。
その幸福を噛み締めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おはよう。よくきたね」
そう言った瞬間、沙桐の顔がぱぁっと明るくなる。そうやって笑む姿はまるで春の陽だまりのようだと、いつも思う。暖かくて、幸せな、朝。
「おはようございます、東宮」
沙桐に続いて、静かな落ちついた声でそういったのは中務郷宮。扇を口元に当てるいつもの仕草で悠然と笑んで立っていた、自分と同じ姿のその人。
「おはよう、宮」
そう言うと、失礼します、と言って簾を避け部屋に足を踏み入れる。沙桐もそれに倣って、失礼します、と声をかける。男装までして殿上させるのに最初は些か不安であったが、お后教育と同様に彼女の為になったのかもしれないと思うと、少しだけ複雑な気分だ。
姫を人前に晒すことは例えどんな事情があろうとも、好ましくない事で。
それは今でもそう思っているけれど、でも。黒く長い髪を踊らせ元気に走り回る薫の楽しそうな姿が何よりも嬉しいから。仕方ないか、と苦笑する。
―――それでもやっぱり、無茶はしないで欲しいのだけど。
そうしてあれやこれやと言葉を交わして。用事も済んで、そろそろ、と退出すべく席を立つ二人を笑って見送る。
「じゃあね、陽朔。またねっ」
「失礼致します」
そう言って沙桐は元気良く、宮は静かに廊下へ向かう。簀子に立って再度振り返り、沙桐は手を振り、宮は軽く頭を下げた。それに応えるように私も手を振る。
そうして二人で去って行く後姿を見つめる。
遠くなっていく足音。
ねぇねぇ宮様、と明るく話す沙桐の声が何故か胸に切なかった。
溜息を一つ落とす。
そういえば以前沙桐が、溜息をつくと幸せが逃げるんだよ、と言っていたのを思い出し慌てて口を押さえ、苦笑する。
笑い声が静かに部屋に落ちて。
傾きかけた夕陽が邸の回りに立つ木々の間をぬって部屋を明るく照らす。
そうして先ほどまで沙桐が座っていた辺りにちらり、と視線をやる。
帰っていく後姿。
隣に立つのは、私ではなく。
どうしようもないことだと分かっていても。
考える。
――もしも私が東宮でなかったら。
ただの貴族であったなら。
皇族などではなくて。
――そうしたら貴方の隣を貴方と並んで歩く事が出来たのだろうか。
…本当に、仕様の無い事だ。
そう思って自嘲するように笑う。
私が東宮で。
彼女が貴族の姫君で。
だからこそこうして出会えたのだ。
それは重々と承知している事。
―――だけどそれでも。
貴方の隣を並んで歩きたいと思うのは許されない事だろうか。
貴方の隣で歩く彼らを。
羨んで仕方ないのだと知ったら貴方はどんな顔をするだろうか。