ビタービターチョコレート
『バレンタインにチョコレートはいかが?』
そう書かれた広告が、ニュースをチェックしているケインの目に映った。
そういや、今日はもう2月14日だっけか…。
そう思い、その広告に少し見入る。バレンタインは、大切な人にプレゼントを贈る日。由来は知らないが、それはかつてまだ人類が母なる星に居た頃からの習慣だ。
ケインはふと、何かを思い出した様に目を細めた。
いつだったか、子供の頃に祖母からお菓子を貰った記憶がある。その時は自分も、花束をあげた。子供だったから、野に咲く花しかあげられなかったけど。とても喜んでくれたのを覚えている。
だけどそれはもう―――遠い記憶。
ミリィは、どうするんだろう…。
目を閉じると瞼に鮮明に描くことの出来る、金髪の少女。…今日は未だ、今朝出掛けたきり帰ってきていない。物資補給の為、昨日から衛星港に滞在しているが、買い物は昨日のうちに済ませたはず。何故、と聞いても応えてはくれなかった。
ケインはニュースが表示されている画面から視線を外し、キャナルに問う。
「なぁキャナル。ミリィは何処へ行ったんだ?」
「…気になります?」
そう言われて、応と答えられるほどケインは素直ではない。別に…とだけ返し、視線を再び画面へと戻す。
船内には、軽い雑音が絶えることなく響いている。もちろん、キャナル程の性能を持ったこの船なら消す事は簡単だが、ケインは敢えてそれをしない。音の無い世界は、時として人に酷く苦痛を与えるからだ。
「で?ケインはどうするんです?」
唐突に問われて、振り返り、何の事だ?と顔をしかめるケイン。
「だから、バレンタインですよ。ミリィにあげないんですか?」
言われて、ああ、と軽く返事を返す。
バレンタイン。
大切な人にプレゼントを贈る日。
しかしながら、切実な問題もある。
「物資買うのだっていっぱいいっぱいだったのに、どこにそんな金があるってんだ」
あげたいのは山々なのだ。元来、バレンタインとは家族や友人、…恋人に花やカード、お菓子などを送る日。
だけど先立つものは何も無く、花を摘むにも野原だって無い。
「それなら、チョコレートはどうですか?」
「チョコレート?」
「えぇ、手作りで。簡単ですよ。資料によりますと、ずっと昔は、バレンタインにはチョコレートを贈る――という習慣がある国も、あったそうですよ」
幸い昨日の物資補給で材料は揃ってますし、と付け加えるキャナル。
なるほど、先ほどの広告はそれでか、とケインは頷く。
悪くは、無い。
ミリィの好物がチョコレートだったことを思い出す。
最近は食べているのを見かけないが……ならば自分が作ってやるのも、良いかもしれない。
「サンキュ、キャナル。レシピはあるよな?キッチンの方に回しておいてくれ」
「了解」
言ってキャナルはレシピを検索、送信する。それを確認する間も無くケインはキッチンへと向かう。料理は久し振りだが、まぁ何とかなるだろう。
キッチンへつくなり、身なりを整えキャナルの送信したレシピを見、作業を始める。チョコレートを刻む作業は少し楽しい。
キッチンへ広がる甘い香り。
喜んでくれるといい、とケインは思った。
* * * * *
街に溢れる『バレンタイン』の文字が、否が応でも今日がその日であることを自覚させる。
ミリィは一人、ただ目的もなく街を散策していた。
2月14日には苦い思い出。
涙と一緒に飲み込んだチョコレートの味は今でも覚えている。
―――待っている間、唯一こぼした涙だった。
船には居られなかった。居たくなかった。
自分の弱さを吐き出して、行き場のない思いをぶつけてしまいそうだったから。
こんな事をしていても無意味だということはわかっていたが、ミリィにはそうすることしかできなかった。
「でもいい加減…帰らなきゃね。心配かけるといけないし…」
誰に言うわけでもない言葉が、ただこぼれてカツンと落ちる。拾ってくれるはずの誰かは、側には居ない。自分から離れたのに、さびしいと思うなんて…なんて身勝手だろう。ミリィは自嘲気味に笑った。
―――消えない痛みが、今もまだ、癒されることなく疼いている。
「よぉ!遅かったなミリィ、何処行ってたんだ?」
「お帰りなさい、ミリィ」
船へ帰った早々、そう言ってミリィを迎えるケインとキャナル。ミリィはいつもと変わらぬその風景に安堵し、だけどわずかに痛む胸を、押さえた。
「ただいま。ちょっと色々見てたら遅くなっちゃって――最も誰かさんがお給料くれないせいで何も買えなかったけど」
いつもと、変わらぬように。悪戯っぽく笑うミリィに、ケインは苦笑する。
「だ、そうよ?ケイン?」
「ふっ…倒れるときはいつでも前のめりだ!」
「答えになってませんよ、ケイン」
そう言い合う二人の掛け合いを見るのは、とても安心する。ミリィ思わず顔をほころばせる。
良かった。大丈夫だ、私。
そう、胸をなでおろすミリィ。だけどそんなミリィの小さな変化は誰にも気付かれることはなく、…気付かせることもない。
知れれるわけにはいかない、知られたくない。
こんな弱い自分。
―――いつだって強くありたいから。
「あ、そうだ」
不意に、ケインがそう言ってキャビンを後にする。
「…何?」
ケインの去った後を指差しながら、キャナルに問う。ケインの養母とも言えるこのすこぶる性能のいい彼女には、この船で分からぬことは無い。
「さぁ、何でしょうね」
言葉とは裏腹に、明らかに知っているふうな顔をするキャナル。そうこう言ってるうちに間も無く、ケインが戻ってきた。
「どしたの?」
「ああ……これを取ってきたんだ」
「何―――」
そう言って手渡されたのはさほど大きくは無い包みで、包装越しにでも冷たいものと分かる。ガサガサと、音を立てて包みを開ける。
「…チョコレート?」
「ああ、お前好きだろ?」
そう言って、ケインは満足げに笑う。それにキャナルが言葉を補足する。
「それね、ケインが作ったのよ」
ケインにしては上出来でしょ?と、キャナルもまた満足げに笑う。
「…何で?」
何で。
そんなの、答えなんて分かっているのに。
それでもようやく口をついて出た言葉はそれだけで。
「何でって……今日はバレンタインだろ?で、お金も無かったから。
ああ、味なら心配ないぞ。ちゃんと味見したからな」
「チョコレートをバレンタインに贈る―――という習慣が昔あったそうよ。それで、ね」
そう…、と静かに答えるミリィ。
「…どうかしたか?」
いつもと幾分様子が違うミリィに気付いたのか、ケインは顔をしかめる。
「―――ううん、なんでもないわ。でも私、何も用意してないから……来月のホワイトデーで良い?」
「ああ、楽しみにしてるぜ」
その言葉は、紛れも無い本当。例え鍋を溶かそうがレンジが爆発しようが、ミリィの手料理はこの上も無く絶品だ。
「ありがとう。―――でも、私今日は疲れちゃったから、これで休んでいいかな?」
「構わないわよ。ね、ケイン」
「ああ。あとは出航するだけだしな」
「ごめんね。夕飯は要らないから……ケイン、これ、ありがとう」
そう言って、ミリィはキャビンを後にする。その後姿にケインは少し違和感を感じたが、声をかけることはできなかった。ミリィの後姿が、それを許さないかのようで…。
「キャナル…ミリィ、何か変じゃなかったか?」
「そう…ですね」
残された二人がそんな会話をしていることを、ミリィは知る由も無かった。
* * * * *
自室に戻って、机の上に再び包みを広げる。普段は使わない机だが、キレイ好きなキャナルのおかげで塵ひとつ無くキレイだ。
ミリィはチョコを一欠けら、口に放る。
口の中に広がる、懐かしいチョコレートの味。
「苦い…」
そう呟いて、
…だけどそれ以上は言葉にならなかった。
「…っく」
ただ、嗚咽が零れるだけで。
「〜〜〜〜〜っ!」
声を出してはいけない。
キャナルに気付かれてしまう。
だけど元栓が壊れたかのようにこぼれる涙は止めることができなかった。
開いたままの傷は癒されること無く、
ただ抱きしめることしかできなくて。
痛みを伴う涙はとどまることを知らない。
バレンタインにはチョコレート?
―――それは遠い昔の恋物語。
苦さを伴った甘い香りは、
ただあの日の痛みを自覚させる。
誰も居なくて、
一人ぼっちで。
叫ぶように泣いた。
あれから一年。
泣いたのは、あれっきり。
―――だけど、今だけは。
無機質な部屋の中、
吹く風など何処にも無く、
ただ床に落ちる涙の音だけが、響いた。
そう書かれた広告が、ニュースをチェックしているケインの目に映った。
そういや、今日はもう2月14日だっけか…。
そう思い、その広告に少し見入る。バレンタインは、大切な人にプレゼントを贈る日。由来は知らないが、それはかつてまだ人類が母なる星に居た頃からの習慣だ。
ケインはふと、何かを思い出した様に目を細めた。
いつだったか、子供の頃に祖母からお菓子を貰った記憶がある。その時は自分も、花束をあげた。子供だったから、野に咲く花しかあげられなかったけど。とても喜んでくれたのを覚えている。
だけどそれはもう―――遠い記憶。
ミリィは、どうするんだろう…。
目を閉じると瞼に鮮明に描くことの出来る、金髪の少女。…今日は未だ、今朝出掛けたきり帰ってきていない。物資補給の為、昨日から衛星港に滞在しているが、買い物は昨日のうちに済ませたはず。何故、と聞いても応えてはくれなかった。
ケインはニュースが表示されている画面から視線を外し、キャナルに問う。
「なぁキャナル。ミリィは何処へ行ったんだ?」
「…気になります?」
そう言われて、応と答えられるほどケインは素直ではない。別に…とだけ返し、視線を再び画面へと戻す。
船内には、軽い雑音が絶えることなく響いている。もちろん、キャナル程の性能を持ったこの船なら消す事は簡単だが、ケインは敢えてそれをしない。音の無い世界は、時として人に酷く苦痛を与えるからだ。
「で?ケインはどうするんです?」
唐突に問われて、振り返り、何の事だ?と顔をしかめるケイン。
「だから、バレンタインですよ。ミリィにあげないんですか?」
言われて、ああ、と軽く返事を返す。
バレンタイン。
大切な人にプレゼントを贈る日。
しかしながら、切実な問題もある。
「物資買うのだっていっぱいいっぱいだったのに、どこにそんな金があるってんだ」
あげたいのは山々なのだ。元来、バレンタインとは家族や友人、…恋人に花やカード、お菓子などを送る日。
だけど先立つものは何も無く、花を摘むにも野原だって無い。
「それなら、チョコレートはどうですか?」
「チョコレート?」
「えぇ、手作りで。簡単ですよ。資料によりますと、ずっと昔は、バレンタインにはチョコレートを贈る――という習慣がある国も、あったそうですよ」
幸い昨日の物資補給で材料は揃ってますし、と付け加えるキャナル。
なるほど、先ほどの広告はそれでか、とケインは頷く。
悪くは、無い。
ミリィの好物がチョコレートだったことを思い出す。
最近は食べているのを見かけないが……ならば自分が作ってやるのも、良いかもしれない。
「サンキュ、キャナル。レシピはあるよな?キッチンの方に回しておいてくれ」
「了解」
言ってキャナルはレシピを検索、送信する。それを確認する間も無くケインはキッチンへと向かう。料理は久し振りだが、まぁ何とかなるだろう。
キッチンへつくなり、身なりを整えキャナルの送信したレシピを見、作業を始める。チョコレートを刻む作業は少し楽しい。
キッチンへ広がる甘い香り。
喜んでくれるといい、とケインは思った。
* * * * *
街に溢れる『バレンタイン』の文字が、否が応でも今日がその日であることを自覚させる。
ミリィは一人、ただ目的もなく街を散策していた。
2月14日には苦い思い出。
涙と一緒に飲み込んだチョコレートの味は今でも覚えている。
―――待っている間、唯一こぼした涙だった。
船には居られなかった。居たくなかった。
自分の弱さを吐き出して、行き場のない思いをぶつけてしまいそうだったから。
こんな事をしていても無意味だということはわかっていたが、ミリィにはそうすることしかできなかった。
「でもいい加減…帰らなきゃね。心配かけるといけないし…」
誰に言うわけでもない言葉が、ただこぼれてカツンと落ちる。拾ってくれるはずの誰かは、側には居ない。自分から離れたのに、さびしいと思うなんて…なんて身勝手だろう。ミリィは自嘲気味に笑った。
―――消えない痛みが、今もまだ、癒されることなく疼いている。
「よぉ!遅かったなミリィ、何処行ってたんだ?」
「お帰りなさい、ミリィ」
船へ帰った早々、そう言ってミリィを迎えるケインとキャナル。ミリィはいつもと変わらぬその風景に安堵し、だけどわずかに痛む胸を、押さえた。
「ただいま。ちょっと色々見てたら遅くなっちゃって――最も誰かさんがお給料くれないせいで何も買えなかったけど」
いつもと、変わらぬように。悪戯っぽく笑うミリィに、ケインは苦笑する。
「だ、そうよ?ケイン?」
「ふっ…倒れるときはいつでも前のめりだ!」
「答えになってませんよ、ケイン」
そう言い合う二人の掛け合いを見るのは、とても安心する。ミリィ思わず顔をほころばせる。
良かった。大丈夫だ、私。
そう、胸をなでおろすミリィ。だけどそんなミリィの小さな変化は誰にも気付かれることはなく、…気付かせることもない。
知れれるわけにはいかない、知られたくない。
こんな弱い自分。
―――いつだって強くありたいから。
「あ、そうだ」
不意に、ケインがそう言ってキャビンを後にする。
「…何?」
ケインの去った後を指差しながら、キャナルに問う。ケインの養母とも言えるこのすこぶる性能のいい彼女には、この船で分からぬことは無い。
「さぁ、何でしょうね」
言葉とは裏腹に、明らかに知っているふうな顔をするキャナル。そうこう言ってるうちに間も無く、ケインが戻ってきた。
「どしたの?」
「ああ……これを取ってきたんだ」
「何―――」
そう言って手渡されたのはさほど大きくは無い包みで、包装越しにでも冷たいものと分かる。ガサガサと、音を立てて包みを開ける。
「…チョコレート?」
「ああ、お前好きだろ?」
そう言って、ケインは満足げに笑う。それにキャナルが言葉を補足する。
「それね、ケインが作ったのよ」
ケインにしては上出来でしょ?と、キャナルもまた満足げに笑う。
「…何で?」
何で。
そんなの、答えなんて分かっているのに。
それでもようやく口をついて出た言葉はそれだけで。
「何でって……今日はバレンタインだろ?で、お金も無かったから。
ああ、味なら心配ないぞ。ちゃんと味見したからな」
「チョコレートをバレンタインに贈る―――という習慣が昔あったそうよ。それで、ね」
そう…、と静かに答えるミリィ。
「…どうかしたか?」
いつもと幾分様子が違うミリィに気付いたのか、ケインは顔をしかめる。
「―――ううん、なんでもないわ。でも私、何も用意してないから……来月のホワイトデーで良い?」
「ああ、楽しみにしてるぜ」
その言葉は、紛れも無い本当。例え鍋を溶かそうがレンジが爆発しようが、ミリィの手料理はこの上も無く絶品だ。
「ありがとう。―――でも、私今日は疲れちゃったから、これで休んでいいかな?」
「構わないわよ。ね、ケイン」
「ああ。あとは出航するだけだしな」
「ごめんね。夕飯は要らないから……ケイン、これ、ありがとう」
そう言って、ミリィはキャビンを後にする。その後姿にケインは少し違和感を感じたが、声をかけることはできなかった。ミリィの後姿が、それを許さないかのようで…。
「キャナル…ミリィ、何か変じゃなかったか?」
「そう…ですね」
残された二人がそんな会話をしていることを、ミリィは知る由も無かった。
* * * * *
自室に戻って、机の上に再び包みを広げる。普段は使わない机だが、キレイ好きなキャナルのおかげで塵ひとつ無くキレイだ。
ミリィはチョコを一欠けら、口に放る。
口の中に広がる、懐かしいチョコレートの味。
「苦い…」
そう呟いて、
…だけどそれ以上は言葉にならなかった。
「…っく」
ただ、嗚咽が零れるだけで。
「〜〜〜〜〜っ!」
声を出してはいけない。
キャナルに気付かれてしまう。
だけど元栓が壊れたかのようにこぼれる涙は止めることができなかった。
開いたままの傷は癒されること無く、
ただ抱きしめることしかできなくて。
痛みを伴う涙はとどまることを知らない。
バレンタインにはチョコレート?
―――それは遠い昔の恋物語。
苦さを伴った甘い香りは、
ただあの日の痛みを自覚させる。
誰も居なくて、
一人ぼっちで。
叫ぶように泣いた。
あれから一年。
泣いたのは、あれっきり。
―――だけど、今だけは。
無機質な部屋の中、
吹く風など何処にも無く、
ただ床に落ちる涙の音だけが、響いた。
*JOKERより再録