31.いじめっ子

 陽炎のように曖昧に揺れる境界線がそれでも確実に近づいている。
 大きく重さを感じるような雲が幾重にも重なって、初夏の強い日差しを遮ってはまた流れていく。汗ばんだ肌にシャツが吸い付くような感覚をうざったく思いながら、加賀は手にした扇子で自分を扇いだ。
 様子でも見に行くか、などと思ったことを少し後悔する。
 冷暖房など存在しない公立中学で、涼しいのは図書室とコンピューター室だけだ。それでも将棋部の教室でジッとしていれば幾分暑さを凌げただろう。既に夕方とはいえ、夏の日差しは長く未だ強く照りつける。
 加賀はちっと舌打ちを一つし、理科室のある廊下へと曲がった。
 特別教室の並ぶその廊下には人気も少ない。放課後である今は尚更で、ただ外から聞こえてくる運動部の声がやけに響く。

 その閑散とした廊下に、女の声が響き渡ったのは加賀が廊下を曲がって少し後のことだ。

 女、というよりもまだ子供染みた女子の声。女子とて気づかなくとも声変わりはある。だけど聞こえてくる声はまだ子供特有の甲高い声で、続いて同じくまだ子供染みた男子の声。それだけで、その音に綴られる言葉の意味など理解しなくとも誰のものかは推察できた。
 加賀は口の端を緩め、目的の教室に近づく。
 距離が縮むにつれ、はっきりと意味をもって聞こえてくるその声。

『何よ、ヒカルのバカ!』
『なんだと!お前がわりぃんだろ!!』

 加賀は開けっ放しにされたその教室のドアを掴み、まるでその部屋の主であるかのように足を踏み入れた。


「お前ら、外まで聞こえてるぞ」
「加賀!」
「加賀さん!」


 突然の声に、二人は今までの諍いが無かったかのように突然現れたその人物に同時に振り返る。加賀はそんな二人の挙動がおかしくて、思わず笑わずには居られなかった。
 先ほどまで居た静かな廊下が嘘のように、その教室はいつもの団欒のような雰囲気を孕んでいて。同じ教室であるのに、将棋部とは全く違うその雰囲気が、嫌いではないと加賀は思う。


「どうしたんだよ」
「ヒカルが髪めちゃくちゃにして!」
「お前がお母さんにテストの点バラすとか言うからだろ!」
「ヒカルが勉強しないからいけないんじゃない!」
「だからって言うことねぇだろ!」
「何よ本当のことじゃない!」
「うるせぇ!」


 そう怒鳴ってヒカルが再びあかりの頭を乱暴にかき回し、小さく結っていたヘアゴムも奪い取る。そうして得意げに、ざまぁみろと言わんばかりに笑って見せた。
 髪をぐしゃぐしゃにされた悔しさか、痛みか、あかりは少し目を潤ませた。それを誤魔化すように髪を直し、泣きそうになるのを堪えながら抗議する。


「返してよ!」
「やだね」
「ヒカルっ」
「取れるもんなら……っ!?」


 取ってみろ、と言うつもりだったその言葉は遮られ、代わりにヒカルは手にしたそのヘアゴムをあっさり加賀に奪われた。
 細めの、繋ぎ目の無い小さな輪っか。それをつまんで、今度はあかりの手に落とす。


「ほらよ」
「ありがとうございます…!」


 泣きそうで、堪えるために固まっていたその表情がふっと緩んだ。
 加賀はあかりのその様子に満足し、反対の手に持った扇子でドアを示す。
 子供をからかうのは飽きないが、女を泣かす趣味は無い。


「髪、直してきな」
「あ、はい!
 ヒカル、後で覚えててね!」
「誰が覚えてるかっつーの」


 ヘンだ、と言ってあかりに舌を出す仕草は、ランドセルを背負いっている子供となんら変わりはない。女子に悪戯をし、追いかけられ、そしてまた追いかけては悪戯をする。中学に入ってすでに数ヶ月が過ぎているというのに、ヒカルの行動は子供のそれとまるで変わっていなかった。

 自分にも記憶にある。
 だけどそう出来なくなったのがいつだったかはもう忘れた。

 そうしてふと、悪戯に加賀は思う。
 それはある意味、好奇心に近いものだった。


「お前、まるでガキだな」
「…なんだよ」


 加賀の台詞に嫌味を感じたのか、ヒカルが憮然として答える。いつもならそんな喧嘩腰を諌める筒井も、今は不在。喧嘩を花火に例えるならばそれは導火線に火のついたような、そんな雰囲気を二人を包んだ。


「小学生だってもっとマシだろ。
 分かりやすすぎ。すげぇバレバレ。
 気づいてないの筒井ぐらいじゃねぇのか?」
「だから何が!」


 もったいぶった加賀の言い方に、気の長くないヒカルは食ってかかる。点火した導線は思いのほか短いらしい。だけど加賀もまた、それを更に誘うように。口の端をあげてニヤリと笑う。


「あいつキレイになるぜ。今はまだ子供っぽいが…そうだな、2、3年てとこか?」
「はぁ?」
「女子は早いぜー成長すんの。俺らと違ってな」


 まるで意図が分からない。そう言うのが、言葉にせずとも察せられた。
 おそらくそうだろうと加賀は思う。今は、まだ。彼にはわからない。

 そしてまた、試すように加賀は言う。


「お前はいつまでそうしてる気だ?」


 いつまでも、そのままではいられないのだと。
 そう言外に意味を含めて。

 容易く異性に触れられるのは子供の特権だ。
 好きだと言う代わりに相手を叩き叩かれ、抱きしめる代わりに追いかけられて追いかける。

 境界線を、知らない子供だけにそれは許されるもの。
 だからこそ―――


「いつまでもガキのつもりでいたら、あっという間に持ってかれるぞ」


 それはある意味警告で忠告。
 友達だと思ってたら好きだったのだと、持っていかれてから気づくなんて漫画にだってよくある話だ。

 ―――だからこそ、境界線を越えることは敵わないのだから。


「……何言ってんだ?」


 だけどそんな忠告もヒカルに通じることはなく、心底不思議そうに首を傾げた。
 そんなヒカルがおかしくて、加賀はヒカルの頭を乱暴に撫で、そのうち分かると静かに告げた。

 いつか分かる。
 それは知らないほうが良いのかもしれないと、思わないわけでもない。
 だけどいずれ、知ってしまうのだ。

 加賀はため息をつき、からかうように、今度は分かりやすくその幼い少年に言う。


「あんま好きだからっていじめてんなよ」
「…!好きじゃねーよ!あんな奴!」


 否定する言葉とは裏腹に、耳まで真っ赤になったその顔がヒカルの本心を肯定した。

 二人になった教室が射光に照らされ、白黒と並んだ碁石が、盤上に小さく影を作る。
 日差しが強くとも日照りが長くとも、それでも確実に傾いた日はいつか暮れて。





 そうしていつか、彼は知る。

 幼かった自分と、告げられた言葉のその意味を。



*続きがあるよ